2014年5月6日火曜日

ベストセラー「ビリ・ギャル」が愛される理由と普通教育の課題

坪田信貴(2013)『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』株式会社KADOKAWA を読む

書籍URL          http://www.kadokawa.co.jp/product/311928100000/

ブログURL      http://storys.jp/story/2096


 アイドル本のような表紙は「ガン」を飛ばす、きれいな「ギャル」の写真が印象的である。帯には「早くも20万部突破!!」、「この奇跡はあなたにも起こる」と煽るようなキャッチ。長い書名のとおり、学年ビリの女子高生ギャルが慶應(総合政策学部)合格を果たす痛快なサクセス・ストーリーで、実際に指導したカリスマ塾教師が綴ったブログが書籍化されたらしい。購入時は刊行後3ヶ月弱にして「8刷」で、本屋では話題本やビジネス本コーナーに未だ平積みで、今日は「早くも重版!」との販促用の旗も見た。


 表紙や中扉でポーズをとる金髪、濃いアイメーク、短いスカートの制服姿の写真は本職のモデルさんとのこと。当然と言えば当然だが、期待を裏切られた気もする。それでも著者によると入塾時の「さやかちゃん」は、「まさに『ギャル』以外の表現は見つかりません」(24頁)という風貌だったようだ。その女子高生が難関校でハイソな、あの慶應に、という意外性が、まぎれも無くベストセラーの理由であろう。人目を引く表紙に加え文章や展開のスピードが速く、行間が大きく文字どおりスピーディーに読める「この手」の本の上手さも売れ行きに拍車をかけているのだろう。もちろん、勉強法のヒントを得ようと手にした受験生と言うより保護者や若手ビジネスマンも少なくないだろう。


 たしかに、TOEIC満点の英語力をもつ著者が惜しみなく披露する、張り紙による英単語暗記法や長文読解時の印の付け方などのノウハウは、そのまま使えそうだ。世界一のノートの取り方として「コーネル式」も図説される。そして、たくさん褒め、スピード感あるアメとムチでモチベーションを高め維持させる、コーチングのような指導法が魅力的だ。心理学云々のtipsはやや眉唾ものだが、本人だけでなく母親をはじめとする家族にも目配りし、エミールを見守る家庭教師ルソーのごとく(?!)寄りそう指導法に首肯させられる。


 しかし、本書が痛快であるほど、そしてそれが大勢の読者に支持されるほど、学校教育を生業とする私は無力感でいっぱいになる。


 「さやかちゃん」は、急成長できる素地を十分持っていたと言える。友人グループの中心的存在で、大人の話を素直に聞き、きちんと挨拶もできる「基礎学力」がある。好奇心も旺盛で、慶應合格という当初は突拍子もない宣言や、聖徳太子を「太った子」だから「タコ」と読んだりする「おバカ」な間違いも、教室のなかで大声で楽しく語れる「さやかちゃん」は、人間に対する基本的な信頼と目立つ存在としての自負、そしてそれを周囲の人も許容している様子がうかがえる。人とサシで話し問題を共有できる力や新しい世界に飛び込める力、目標に向かう意志の強さはまさに「学ぶ力」と言える。しかし一般の教室では、そうした「キャラ」として級友や先生に暗に承認された生徒でない限り、そうした力を磨いたり発揮できたりすることは至難の業である。


 「さやかちゃん」は大学まで進学できる「お嬢様校」の生徒だったことも、表紙の写真に加えて本書に裏切られた感がある。主婦がプロの通訳・翻訳家に!というビジネス本の奥付に「東大卒」とあるのを見たような気分だ。「学年ビリ」としても、基本的な読み書き算に加え、語彙力や受験勉強に必須な集中力や「勘」は備わっていたのではないか。何よりも、学校教育だけでは十分に習得し発揮できない、相手の存在を認めて交わる力や自己肯定感、そして愛嬌と、周囲の温かい眼差しがないとね、と「だめ押し」されたような読後感である。


 以前務めた短大は繁華街の近所だったこともあり、往事の「ガングロ」、「マンバ」もいた。実のところ目立つギャル学生は心配無用である。「ギャル」は一部の女子にとって合理的な処世術であり、真性のギャルになる才覚をもつ女子は大抵どこでも上手くやっていける。授業では教師にタメ口で話し、見学先や実習先での評価は抜群だ。進路が定まると瞬時に「社会人」に変身して楽しかった〜と卒業していく。しかし、女子高生時代にギャルに憧れたけど適わなかった、また憧れる気力さえ無かったような中途半端な見た目と態度の学生には、一筋縄では授業に関心や敬意をもってもらえない。


 反抗的な態度をとるならまだ良い。非社会的な傾向の学生は少ない友人とのコミュニティで完結してしまい、教員を避け、他の学生とも目を合わせたり、話せなかったりする。その場合、人との「つなぎ直し」のような工程が必要となる。廊下ですれ違ったりする時に反応がなくても声がけを繰り返す。授業では他愛ないコメント用紙を集め交換日記のように返し、必修の学内行事で笑顔を交わし、やっと話ができる。アルバイト先や就活で、また家族やカレシとの関係で進退窮まった学生に、今では絶対踏み込まないような「おせっかい」をすることで、わずかなりとも信頼や関係性が得られたと思えた事件も多々。


 本書は、言わば「二流ギャル」に対して大学や教師ができることは何か、という私の積年(昔年)の問いには十分答えてくれない。教育的な「生徒いじり」に応じてVOWのような珍回答を堂々と話す「さやかちゃん」に加え、高校で問題を起こす娘をかばって「モンペ」のような行動を厭わず、諸事情でカード類や携帯電話も止められていたのに塾の授業料の百数十万を工面してしまう、娘を無条件で肯定し続ける行動力ある母親。著者が述べるとおり、「この子はいける」と思わせる素養が、「さやかちゃん」とその家族にはあったのだろう(妹さんは上智大合格とのこと)。では、本人が「愛されキャラ」でない場合、また家庭環境や家族に恵まれない場合、どうしたらよいのだろう。この無力感は、高校教育の制度的な問題にも向かう。


 本書は塾の素晴らしさが光り、「無制限コース」という毎日受講できる贅沢なクラスだったこともあり生徒の学力や興味、性格、また家庭の事情などにオーダーメイドのように組まれた指導が行われた。したがい、「慶應に行く」と本気になった「さやかちゃん」にとり、すべては塾にあり、高校は「寝場所」となってしまった。クラス担任に呼び出された母親は、次のように言い放つ。


 「先生は、さやかを慶應に導こうとしてくださっていない。無理だと言って、笑っておられる。(略)学校の授業はさやかには意味がないんです。(略)さやかは慶應に行く子なんです。寝かせてください」(215頁)


 ここまで言われる3時間の面談は、喉元まで来ているたくさんの言葉を飲み込んだであろう担任教師の心境を思うと気の毒でさえある。しかしたしかに、40人学級の普通教育を旨とする高校では個別に近い指導はしないし、物理的に不可能だ。結局「そのまま寝かせておく」ことで慶應に合格したという筋書きに至るが、少人数の指導や進路に合わせた指導をしたいと願ってもできない。高度経済成長期に高校では一時期、専門化が進んだが、ほとんどが「普通科」となって現在に至る。大学進学をにらんだカリキュラムが用意され、「総合学科」やコースが増えたりしたものの、進路や関心、学習方法が多様なはずの高校生は、クラス単位で同じ授業に臨み、偏差値で序列化され、半数以上が高等教育に進み、大学によっては中高の延長のような授業の受講を余儀なくされる。


 ビリ・ギャルの快進撃を阻むヒールのような学校像は今に始まったことではないが、一人ひとりに合わせ、楽しくアクティブな授業を展開した塾の成功潭の陰で、学校の枠組みそのものが閉塞感でいっぱいに見えるのは私だけではないだろう。もちろん大学教育にも、そのまま同じ問題が課されている。