西村京太郎(2017)『十五歳の戦争:陸軍幼年学校「最後の生徒」』集英社新書 を読む
凄まじい戦場の描写が話題の映画「ダンケルク」を見た。画面いっぱいに広がる砂浜に、黒ずんだカーキ色の軍服の兵士の細い隊列が幾十に連なり、ドイツの空軍が撃ちたい放題に掃射する場面。あるいは、ぼろぼろの商船の船底で、下級兵士たちが文字通り息を潜めて満ち潮を待っていて、ドイツ軍の銃撃を受けて銃弾の穴から海水が入り込み、外にも出られず絶体絶命の状況の中で「重さを減らすため誰かを下ろそう」と狂気じみた愚策から、暗闇の中で弱肉強食の個人攻撃を始める場面等々。陸と空、そして海での数日間が、きわめてリアルに描かれていた。自宅に大型TVがあったとしても、映画館で見るべき映画と思う。
ダンケルクの戦いは、イギリスでは「関ヶ原」のような有名な史実だそうで、映画でも、(一家族の葛藤が描かれるものの)招集に応じた民間船が、大挙して海原に現れる「お約束」の感動的なシーンもある。しかし、映画の主役は下級の陸軍兵(それも複数)であり、訳も分からず逃げまどう兵士の視点からの映像となっている。最高責任を持つ将校(ケネス・ブラナー)が映画の終盤で、戦場の最後を見届けるため一人だけダンケルクに残る、という英雄的な決断をするシーンが白々しく見え、帰還した兵士を迎える車窓ののどかな農村風景や遊ぶ少年たちの描写を含めて、徹底して庶民である一兵士の目線が貫かれている。
その有名な戦いは一言で言えば「敗走」であり、日本の戦争史では珍しいかも知れない。規模は、たしかに巨大だ。英仏連合軍がドイツ軍に大敗し、フランスの港町、ダンケルクに40万人もの兵士が追い詰められる。ドーバー海峡を挟み故国の岸壁が見える距離なのに、ドイツの空軍やUボート等がたむろしていて、救出用の空軍や軍艦等は十分に出してもらえない。時のチャーチル首相が「救出できるのは3、4万人ほど」と見積もったほど絶望的な状況下で、900ほどとされる民間船の活躍もあり、敗戦から一ヶ月後、作戦開始から一週間ほどで、34万人近くの英兵が帰還した、史上最大の救出・撤退作戦と呼ばれる。
しかし、この「敗走」こそが「大勝利」とされる。第二次世界大戦開戦直後に、大勢の兵士が帰還できなければ、英仏の戦争継続は困難だったとされる。事実、ドイツはソ連どころでなく、英仏との交戦で手一杯になっていく。何よりも、士気喪失の危機を免れ、むしろ国民団結を訴えるダンケルク・スピリットなるスローガンも生まれている。映画では、数機だけだが精鋭の英空軍のパイロットが、職人技を見せる。隊列を組みドイツの戦闘機を打ち落とすが、「帰還する」までが熟練パイロットの職務のうちで、燃料を残しておく、非常時はパラシュートでの脱出や海上着陸を行う、という手はずになっている。最後、英雄的な働きをしたパイロットが囚われの身となるが、捕まる前に手抜かりなく愛機を破壊する。
一方、日本では、「死して虜囚の辱を受けず」等のフレーズが残るほど、死を顧みない行為が善しとされた悲しい歴史を持つ。ダンケルクの戦いからわずか4年後に、終戦間際のインドで強行された「インパール作戦」は、もともと過酷な自然環境の中、インド軍や英軍の攻撃を受けながら3ヶ月にわたり行軍が続けられた。悲劇としか言えないのは、雨期も迎え、明らかに形勢不利なのに作戦中止が遅れ、補給(兵站)は計画すらなく、皮肉にも、中止命令が下ってから、多くの兵士が山路を敗走し、飢えと伝染病等で倒れた。総勢8万人以上のうち、戦死者と行方不明者は病死者を含め3万人、戦傷者も3万人に上ったそうだ。ダンケルクと同様の壮大な撤収であるのに、帰還兵が英雄として歓待される見込みはなく、暑く暗い泥濘の山野を彷徨した悲劇は繰り返してはならない。
TVドラマの「十津川警部」で知られるミステリー作家、西村京太郎氏の自叙伝『十五歳の戦争』では、当時の日本軍は、レーダーや機関銃の時代に「現代戦を桶狭間で戦った」(169頁)という説明が腑に落ちた。奇襲をかけ、少数精鋭の軍が大軍に勝つ、という戦国時代の戦争像が、明治期から太平洋戦争にいたる日本の陸海軍の将校で理想とされた恐れがある。西村によると、「死して・・・」等の戦陣訓(訓示)を掲げ、「現地点を死守せよ」といった観念論を民間人にも徹底させた結果、「戦場の華」とされた歩兵も、2年の訓練のために一人2億円の予算が必要な優秀なパイロットも大量に戦死した。「ひょっとすると、日本人の感性が、現代戦に合わないのではないか」(170頁)という指摘は、言い得て妙である。タイトルそのものが「日本人は戦争に向いていない」と名付けられた第3章は、定年退職を迎える学校教員もすべて戦後生まれとなった今日こそ、子どもを含む多くの人に読んでほしいと思われる。
さらに大学生には、同書の前半もぜひ読んでほしいと思う。1930年生まれの西村氏は、書名のとおり「15歳」で、東京陸軍幼年学校(東幼)に入学する。何十倍の競争を経た入学者が「星の生徒」と呼ばれた、当時のエリート校である。西村氏は、敗戦のためわずか5ヶ月の「49期生」であったが、陸幼の「エリート意識」を高めさせる教育の問題を指摘している。当初から一般市民を「地方人」と呼び、接触を禁じたらしい。そして、戦況や食糧事情が厳しくなっても米飯食で、優秀な先輩が暢気に陸軍大学校(陸大)進学を目指していたりする等、一般社会から隔離された幹部養成校の様子が描写されている。あの東條英機も卒業生で、インパール作戦を決行した将校と同様に士官学校や陸大を出て、エリート軍人として昇格していく。自分は市井の人と異なるのだという意識を若年層に植え付ける教育のあり方は、ノブレス・オブリージュの精神を養う貴族教育はともかく、庶民家庭の出身が少なくない受験エリートの教育であると考えると、視野の狭さや人権の軽視(当時は人権の法的根拠は無いが)等々の問題が生じることは明らかで、卒業生の社会的地位を考えるときわめて危険である。
悲劇は繰り返してはならないはずが、NHKのドキュメンタリー「PKO 23年目の告白」では、政治的事情で戦闘地域に赴任し、援助や「作戦中止」等がないままに死者も出た、まさに変わりなく戦争が続いていたことに震撼する。カンボジアでの1993年の文民警察官殺害を丹念に追った記録で、国連ボランティアの中田厚仁さん殺害は大きく報道されたが、この事件は報道が制限されたらしい(だから「23年目の告白」なのだ)。
文民警察官は、もとは街の警察官である。優秀で志の高い警察官が選抜され、停戦合意のある安全な地帯に赴く制度で、当時の河野洋平氏や国連の明石康氏等が導入を進めた。しかし現地は安全とは名ばかりの紛争地で、さらに日本は派遣が遅れたため、危険地域に配属されてしまう。武器を持たない10名が、さらに二カ所に分かれ、ビニールシートを敷いた粗末な小屋で選挙の監視にあたる。長期にわたる劣悪な環境に関わらず、写真の中の彼らは笑顔で住民に接し、アイロンのきいた白い制服がまぶしい。そうして、オランダの海兵隊隊員が先導し、車列を組んで移動中に、ロケット砲やAKを撃ち込まれ「蜂の巣」状態となる。海兵隊隊員が「軍人の倣い」としてゲリラに応戦したため銃撃が増した等の解釈もできるが、紛争地で起こるべくして起こった事件と言える。ドキュメンタリーでは、当時の地区隊長のインタビューが重く、さらにそれが報道されなかった問題は大きい。その地区隊長が戦闘状態を改善しようと親交を深めた一方、襲撃の首謀者だと疑っているポルポト派のリーダーに会いに行く場面も重かった。二人は再会を果たすものの、彼はやはり軍人。決して散発的なゲリラでなく、軍の戦略として組織的に襲撃されたのだ、ということを匂わせて終わる。
戦争は決して美談でなく、醜く描かれなくてはならないと思う。それが物語性のある映画であればなおさらだ。この夏は、チェコ映画「ハイドリヒを撃て!」を見た。「死刑執行人もまた死す」(1943年)で知った、ナチスに乗り込まれたプラハの惨劇(エンスラポイド作戦)を描いている。これもダンケルクのように、銃撃(さらに拷問)と死の場面が、きわめてリアルに描写されている。しかし、主人公の軍人(キリアン・マーフィ等)がいわゆるイケメン揃いの上、潜伏期のラブストーリーも描かれ、最期はやはり壮絶だが死への過程が崇高にさえ見え、幼い頃から史実になじんだプラハの人々はともかく、予備知識がないまま視聴すると、戦うことの美しさが強調されないかが懸念される。
よくあることだが、邦題が残念だ。「ハイドリヒを撃て!:「ナチの野獣」暗殺作戦」と名付けられ、サバイバルゲームのような印象だ。たしかにハイドリヒ暗殺シーンもあるが、映画はその後の人間模様やナチスの執拗さが見せ場である。いずれにしても、私自身が戦争を知らない世代であり、学生用のテキストでは、「戦後」か「敗戦後」と書くかで未だに迷ったりする。しかし、教職課程の学びに避けては通れない時代であり、西村氏のようにご存命の方から、または優れた映像をとおして、当時のことを今のうちに教えていただきたいと思っている。
・・・参考・・・
- 映画(2017)「ダンケルク」監督:クリストファー・ノーラン、アメリカ、116分
- 映画(2016)「ハイドリヒを撃て!:「ナチの野獣」暗殺作戦」監督・脚本:ショーン・エリス、チェコ・イギリス・フランス、120分
- NHK(BS1スペシャル)「PKO 23年目の告白:75人は海を渡った」2017年8月22日(再放送)