2016年1月6日水曜日

早期教育が適わない家庭もある

オピニオン「選べない国で:教育は希望か」『朝日新聞』2016年1月5日 のうち「内田伸子さん」の項を読む


3人の識者への聞き書きの記事で、そのうち内田伸子氏へのインタビューを尾沢智史氏が聞き手としてまとめている。サブタイトルは「早期教育より遊びとふれあい」。早期教育について幾つかの興味深い調査例が紹介されている。
一つ目はビデオ視聴の例。米国の調査で、生後6ヶ月から10ヶ月の間に早期教育用のビデオ教材を1日1時間以上視聴した子どもには、認知や言語の面で発達の遅れが見られたという。また6ヶ月の子どもに1時間ビデオを見せると脳が「オーバーフロー」になるそうだ。
二つ目は、語彙力の調査では高収入の家庭の子どもの得点が高く、習い事をしている子どもは、していない子どもに比べ得点が高いこと。ただし、英会話等の学習系の習い事をしている子どもは実は有利ではなく、芸術・運動系の習い事をしていても先生や友達とコミュニケーションを取る機会が増えるので、語彙力が増えるとのこと。
三つ目は、体操やバレエ、ダンスの教室に通っている3〜5歳児の運動能力は、通っていない子どもに比べ、むしろ低いとのこと。同じ動きを繰り返すトレーニングは子どもには面白くなく、友達に比べて自分は劣っている等と人目を気にするようになると運動嫌いになってしまうそうである。同様に、早期の英語教育の効果は疑問とのこと。
四つ目は、本の読み聞かせをたっぷり受けた子どもや、手先を使うブロック遊びを好んだ子どもが小学生になった時の国語の学力が高いこと。幼児期に受けたしつけや保育形態は重要で、一斉保育よりも自由保育であった子どもの方が語彙得点が高いそうである。そして、「親子のふれあいを大事にし、楽しい経験を共有しようとする」特徴をもつ「共有型」のしつけを受けた子どもは、「子どもに過度に介入し」「褒め言葉が少なく否定的な言葉が多い」特徴をもつ「強制型」のしつけを受けた子どもより得点が高いという。
一つ目は現代の教育において重要な課題だ。『現代用語の基礎知識2016』の「育児」の項ではリード部分に睡眠障害が取り上げられ、「子育てアプリ」や「スマホ子守り」も用語に挙がっていたが、今時のメディアとの接し方は、甘く見ると脳等の身体の基幹に致命的な危険を負いかねないと言えよう。
しかし、本稿では2つ目以降の問題点に着目したい。科学的な調査実験で得られる知見に基づきより良い早期教育のためのヒントが指摘されているが、これを実現するための条件整備はいかがか。例えば、このインタビューは以下のとおりに締め括られている。
 「しつけや保育のスタイルは親が選べる。(中略)子どもとふれ合い、遊ぶ時間をできるだけ確保することを考えるべきです。その方が、子どもの将来の選択肢を広げることにつながるのではないか。」
たしかにその通りであろうが、しつけや保育のスタイルを選べない、選ぶという発想が無い保護者は少なくないのではないか。実は、次のような冒頭の一文で私は引っかかっている。
「子どもの早期教育が過熱気味ですが、小さいうちにどんな教育を受けさせるかで子どもの将来が決まるというのは間違いです。」
おそらく、今の私が強い関心と危機感を持っているのは、バレエや英会話等の選択肢を持たない、あるいは通いたくとも物理的に余裕が無くて適わない家庭、そしてその状況を放任する社会の問題である。オプションとしての早期教育は諸刃の剣の側面を持ち、内容や方法等は十分に検討されてほしい。だが、ミニマムで基礎的な幼児教育、つまり乳幼児に対する組織的な教育的はたらきかけと環境整備は、子どもの将来を大きく左右することは明らかだと思う。もちろんそれは教室や授業等の形態をとらないインフォーマルなものかもしれない(自由保育が優れているようですし!)。だが、子どもの能力の基礎を培うための条件整備は、親に限らず、大人と社会の責任であろう。
本文のフレーズを借りると、「親子で楽しい会話をする」、「子どもと楽しい時間をできるだけ確保する」といった教育的はたらきかけは、素人目にも子どもの選択肢を広げる土壌となり得ると言えよう。だからこそ、そのような親子の「遊びとふれあい」が希薄な家庭の子どもは語彙が豊富でなく、将来の選択肢が狭まると言う科学的な帰結を、そのまま若い親に説くことは私には出来ない。2015年は『幼児教育の経済学』(東洋経済新報社)、『学力の経済学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)が話題になり、いずれも幼児教育の重要性に触れていたが、当事者が何となく不安に思っている「遊びとふれあい」は実の親(特に母親)でなくとも良いか、習い事ができない子どもの体験活動やコミュニケーションの場をいかに保障できるか、といった疑問の検証や、実際の条件整備のための科学的根拠が、今こそ教育学に求められているのだと思う。インタビューでも、「共働きで保育所に子どもを預けていても、家にいるときは子どもと遊ぶことを第一に考える。親子で楽しい会話をしていると語彙は豊かになります。」というくだりがあるが、「共働き」で「子どもを預ける」家庭、「親」や「楽しい会話」が欠ける家庭の子どもの語彙力を増やすためのヒントこそほしい。
 もちろん具体的な仕組みづくりは心理学研究の問題では無く、心理学の知見を活かす側の問題である。今年だからこそ条件整備のあり方を内外の事例から考えたいと仕事始めの日に思う。

2016年1月3日日曜日

行政と地域の協働というタームを考える

社説「孤立社会を超えて:市民と行政の協働築こう」『朝日新聞』2016年1月3日朝刊 を読む


たしかに20151122日に起きた埼玉県深谷市の心中事件の記憶は今でも鮮明だ。40代の女性が高齢の両親を軽乗用車に乗せて利根川に入水。それも途中で車が動かなくなり、3人で晩秋の川の深みへと歩いた。社説で紹介されているように、生き残った娘は殺人等の疑いで逮捕、起訴され、「生活苦や母親の介護の疲れで一緒に死のうと思った」と語ったという。
81歳の母親が10年ほど前に認知症になり、娘は3年前に仕事を辞めて介護に専念する。新聞配達で家計を支えた74歳の父親が病気で働けなくなり、11月2日に娘は生活保護や介護保険の相談のため初めて市役所を訪れたという。社説が強調するとおり、それまで一家は介護保険等の行政サービスを全く利用してこなかったのだ。
社説は、一家が平屋建ての古い借家ながら「静かな住宅街の一角」の出来事である、つまり普通の地域の事件であることを想起させ、「貧しくとも人と人とが支え合う。日々の生活は苦しくても、何とかやっていける」という「希望」は打ち砕かれ、「人のつながりが薄れた今、生活の困窮は、孤立を生み、あきらめをもたらす」状況への憂いを冒頭に記している。
地域の絆とでも呼べるネットワークを前提としたユートピアは夢物語であることは、今日に生きる者は多かれ少なかれ痛感していると思う。社説は、犯罪者となった娘が「ゴミ掃除の当番がきついので」と自治会を抜けたという細かいエピソードも紹介している。地域行政の基礎単位となる自治会の脱会は、地域や行政の情報網から遮断され、ゴミを出す等の暮らしの細事も卑屈になり、近所イコール地域からの孤立を意味することはたしかだ。
いまや全国に蔓延する生活困窮者の孤立問題への取り組みとして、社説は政府の社会保障国民会議が高齢世代中心から「全世代型」への社会保障制度の転換や雇用、低所得者・格差の問題を重視した報告書を3年前に出したこと、また2015年度から生活困窮者自立支援法が施行され行政の相談窓口の一本化が進められていることを紹介しつつ、「支援を行政任せにすることにも限界がある」と述べているのは、残念ながらどうも腑に落ちない。
大阪の豊中市のコミュニティ・ソーシャルワーカー(CSW)の事例紹介は魅力的で、商店街の空き店舗や学校の余裕教室を使って「福祉なんでも相談室」を開設したり、民生委員や地域包括センターと協力して戸別訪問を行ったりして「SOSを出せない人」、「制度の狭間で困っている人」を支援しているそうだ。他にも秋田県藤里町の引きこもり支援にも触れられている。
しかし、社説のラスト2段落は荒業と言えないか。豊中市のような取り組みは行政の機能の補強に過ぎないので、「地域と行政の協働が広がれば、相談が来るのを待っているだけでは漏れてしまう人たちに支援が届くようになるはずだ。(中略)双方の協働を通して孤立を乗り越えられる。(中略)希望も生まれる。」と結ばれている。具体的な施策が必要という文脈で読んでいたのに、ラストで市民と行政の協働という緩いユートピア論が飛び出してきた印象である。
エピソードとして紹介されていたのは、向かいの家の異変を感じながら「ご家族はたいへんだったのでしょうね」と回想する近所の人や、脱会の申し出を受けた自治会、そして「支援に向けて動いていた矢先のことなのでショックです」とコメントする市の行政担当者である。それらの人々は、困窮した家族を支えるために動かなかったとしか読めない。人と人が支え合おうというスローガンはもちろん正論だが、具体的な協働のための道筋がほしい。
もちろん生活困窮者の孤立の問題に目を向けたこの社説は読み応えがあり高く評価するが、地域や市民との協働を述べる前に、メディアには行政サービスの改善を促してほしい。貧困問題が表面化した今日、オンデマンド型の福祉行政の限界は既に随所で指摘されており、行政を生業とする者には仕組みの改善と完全実施が最低限かつ最優先の仕事ではないかと思う。
これは学校行政の問題にも通じる。子どもの貧困や地域格差等が顕在化した今日、オンデマンド型の制度設計から足を洗うとともに、真の地域連携を進めてほしい。実は私は「チーム学校」提言のスクールソーシャルワーカー(SSW)常置は首肯できない。学校が子どもの「評価」が行われる機関である限り、個別のケアは学校から切り離し、専門機関に任せるべきと考えるからだ。教育はデリケートで特殊という理由で外部連携を優先せず、学校内ですべて抱え込もうとするのは、学校教育や「中流」の生活層の教師の文化に馴染まない困窮世帯の子どもには残酷なシステムと言えないか。学童保育でさえ良いイメージを持たない教職員が少なくない今日では、退職教員にSSWの職を充てがうことなく(元ベテラン教師ならではの優れた取り組みをされている例も少なくないが)、「プロ」の福祉職や行政担当者に任せる仕組みが必然ではないか。社会教育・生涯学習行政においても必要課題の把握は必須である。この問題は別に論じたいが、地域連携を述べる自らの襟こそ正したい年頭である。