2016年3月31日木曜日

“保育園落ちた”問題に思う

NHKラジオ第1「社会の見方・私の視点」2016年3月31日 を聞く


軽快なラジオ体操♪終了後に流れる「社会の見方・私の視点」(旧「ビジネス展望」)。今朝のゲストは中央大学教授・山田昌弘氏であった。「パラサイト・シングル」、「婚活」等の流行語を生み出し、主に家族関係の社会問題を鋭く射抜いてきた社会学者である。が、今朝はどうも歯切れが悪く聞こえた。
タイトルは「入れるか、入れないか、それが問題だ」のようなもの。つまり、待機児童問題である。くだんの「保育園落ちた」ブログを発端にこの問題が政策論争を巻き起こし急展開している。これを契機とした状況改善を強く願っているが、その前に状況を知っていただきたい、と言いますか、共感と想像力をもって少なくとも事態を理解していただきたいと僭越ながら思ってしまった。
保育園問題は何が問題か、見当がつかない人も多いと思う。今年2月末の国会(衆院予算委員会)で、現・民進党の政調会長に就いた山尾議員が「保育園落ちた」ブログの文言を読み上げた時、なぜかちょうど中継を聞いていた。安倍首相は匿名だし確認出来ません云々と子どもに門前払いを食らわせるような答弁をし、稚拙なヤジも飛んだ。一般の、特に保守層の壮・老年男性の認識はそうしたものが多く、同年代の多くの女性にも同様の反応が見受けられるように思う。保育園は特定の層や女性が必要とするプラスα の福祉政策である認識と、慌てて答弁しようにも事業の実態は複雑で感情面から攻めたくとも良く分からない(首相からは保育士を表彰したいという案も出ていたが)という状況を、今朝のラジオでも再確認したように思う。
山田氏の時代を切り取る目と、それを嫌み無くユーモアに包み発信される力は頭抜けていて、内閣府や文科省の審議会等で的確でバランス感覚のある政策提言もされている。しかし、本日のラジオ講話は「保育園に入れるかどうか」が主眼で、今年度(2015-)から導入された子ども・子育て支援新制度のもとで市町村が必死で取り組んでいる小規模保育等のいわゆる「地域型保育事業」等にも目を向けた、ありきたりでない見解をうかがいたかった。
首都圏に居住する有識者は、保育園と言えば公立の施設をイメージされるのではないかと思う。公立で無い社会福祉法人立の認可園の多さや、東京都や横浜市等が独自に認証している施設等は最近の報道でも話題になったと思うが、公設公営の保育園は本当に稀少な存在だ。アナウンサーも「公立」云々と話されたように聞こえたが(まだ Podcast に反映されていないので改めて確かめていないが)、待機児童問題の改善のためには「公の保育園」そのものを理解することが肝心だ。幼稚園の緩い対義語としての保育園というより、児童福祉政策としての「保育所」だ。
厚労省が把握している2015年4月現在の保育所の設置状況を見ると、公立の保育所は増加傾向にあるものの全国で9,212施設。社会福祉法人設置のものは12,382で、全国の保育所23,537施設のうち公立は39%しか無く、社会福祉法人立は53%に至る。増加が目立つのが株式会社・有限会社立の927施設(前年は657)、NPO立の165施設(前年は94)である一方、新制度の影響か、学校法人立は激減し366施設(前年は652)となっている。
新制度の大きな目玉となっている地域型保育事業については、同じく厚労省の平成27年4月現在のデータによると、特に保育所に近似する給付型の小規模保育は1,655件ある。それらの6割が株式会社・有限会社立や個人立で専ら首都圏が多く、埼玉県231件を筆頭に東京都219件、大阪府163件と続く。「保育ママ」等と呼ばれる家庭的保育は、全国で931件のうち8割が個人立で、東京都が断トツで457件、次に神奈川県93件となっている。
今回の待機児童問題糾弾は制度改革の契機となったが(真の実現を願うが)、同様に1970年代後半から一大物議を醸し公的チェックが進んだのが「ベビーホテル」であった。保育園が無いためやむを得ず保護者等の共同保育が広がり、その他にも認可外の一時預かり所やを夜間保育が生まれ、残念ながら一部の劣悪施設が横行した。そして今日、(嫌な言い方だが)「待機児童の受け皿」として、認可外保育施設が改めて注目されている。
認可外と言いながら厚労省は指導監督を行うため実態把握は行っており、「平成26年認可外保育施設の現況取りまとめ」によると、認可外は全国で8,038カ所に及び、入所する子どもは20万1千5百人に及ぶ。ベビーホテルは減少しているが、自治体が独自に行う認証保育所等の保育事業を含めた認可外保育施設の総数は増加傾向にあり(前年度比99カ所増)、待機児童解消に躍起となっている市区町村の公立保育園数に追いつきそうな勢いに見えてしまう。
手元にデータを置き偉そうに書いている私も、保育士養成を行う勤務先に変わらなかったら、また我が子が0歳で保育園に入り、3歳で「保育園落ちた」ため幼稚園に通わなければ、問題の糸口すら気づく機会は無かったと思う。申込の時点から、大袈裟でなくカルチャーショックの連続だったのだ。本当に。
地域差も大き過ぎる。都内では公立保育園が身近だったが、神奈川に引っ越すと、私立園ばかり。念のため先述の厚労省調査を確認すると、東京都の保育所数は公立898でその他1,189、政令指定都市を除く神奈川県では公立園は僅か97でその他も260のみ。一時は待機児童ゼロで話題となった大都市・横浜市も今年2月現在、市立園は86(横浜市保育所総数の13%)のみで、民間は568116ある認可外の「横浜保育室」で待機児童を緩衝している現状である。全国の状況を見ても、例えば長野県は公立が403園で総数47884%に上る一方、静岡市、青森市、豊中市等には公立園が一つも無かったりする。
待機児童の状況も、例えば住民サービスに定評がある人気の住宅地、東京都三鷹市の今年4月1日申込状況を見ると、ある認可園で0歳の募集12名に対し申込95名(8倍!)、3歳の募集2名に対し申込28名(14!)とある。私的な経験からも、他の園を打診されたりして事務的な手続きやあれこれ検討すること自体に手間と気力を磨り減らさないか懸念されるし、地域や園の方針の差も大きい。埼玉県所沢市で話題となった育休退園や(所沢をきっかけに神奈川でも複数の自治体が同様であったことが明るみに出たが)、週末は子どもの昼寝用の布団を持ち帰って干す(兄弟がいる場合は2枚等になる)、指定された形の衣類入れ等を手作りする等の園独自の親泣かせなルールが残る園もある。
保育所の改善は、瓢箪から駒かもしれないが時流に乗って良い方向に進んでほしい。単に「入れるか入れないか」の問題に終わってほしく無いし、門外漢としては民営化や小規模等の施策の理想像(終着点)を知りたい。
現状に関心が集まるだけでも大躍進ではないか。一連の待機児童問題で母親ばかりがクローズアップされるのも勿体ないと思う。ぜひスーツを着た大人の男性にも、ビジネスライクに役所や事業主等に掛け合ってほしい。保育の一番の当事者は子どもであるが、親も当事者である。しかし数年で当事者を「卒業」してしまい改善の思いが次世代に生かされず、思いはあっても学校教育や職場の当事者となったりして疎遠になってしまう。なぜ改善が進まなかったか、なぜスルーされてしまうのか、旧(?)当事者や非当事者の観点も多く酌んでほしい。

*参考

2016年3月28日月曜日

小学生の放課後の学習支援をめぐって

 城丸章夫(1977)『地域子ども会:つくり方と指導』草土文化 を読み返す


保育園の待機児童対策への突き上げが喧しい。本日公表された厚労省調査でも昨年10月時点の待機児童数は4万5千人に登り、社会的に問題視されながらなおかつ増加傾向にあることが示された。自治体による調査については、育休退園や認可外通園をカウントしない等の問題が噴出している。同様に、「小一の壁」と呼ばれるほど深刻な小学生の放課後にもぜひ注目してほしい。放課後は、有りとあらゆる教育環境をめぐる問題が凝縮される小宇宙とさえ思える。
小学生対象の放課後事業については文科省が管轄する生涯学習振興を目的とした「放課後子ども教室」をメインで考えたいが、厚労省が行う「保育に欠ける子ども」を対象とした学童保育(正式には「放課後児童クラブ」)と合わせて放課後事業と呼ぶこととする。国は2014年に「放課後子ども総合プラン」を策定して全児童対策を謳い、「放課後子ども教室」と学童保育との一体型、または連携型としての再整備を市町村に推奨している。一体型の先行事例には東京都世田谷区の「新BOP」や神奈川県横浜市の「はまっ子ふれあいスクール(放課後キッズクラブ)」等があるが、保育の質の担保や民営化問題等で王道は無い。2015年は子ども・子育て支援新制度の導入や、改正児童福祉法施行による学童の対象が6年生までの拡大等と、大きな行政改革が迫られるこの頃である。
学童保育(放課後児童クラブ)に関する直近の厚労省調査によると、全国で2万2千6百カ所(支援単位は2万6千5百)ある学童保育の登録児童数は約102万5千人で前年比約8万8千人増。待機児童数は1万6千9百人で、前年より7千人近く増えた。それらは小学校内(余裕教室や敷地内)に全体の半数以上にあたる1万2千カ所が開設され、そのうち同一の小学校内で「放課後子ども教室」(プログラム)を実施する数は、3割に当たる3千6百カ所に及ぶ。一体型で無くとも、学童と何らかの連携をする「教室」は確実に増えている。
本題に戻ると、一連の行政改革の過程で放課後事業の学習の機能がクローズアップされたことが注目される。「放課後子ども教室」の前身である「地域子ども教室」事業は、「地域の大人の協力を得て、学校等を活用し、緊急かつ計画的に子どもたちの活動拠点(居場所)を確保し、放課後や週末における様々な体験活動や地域住民との交流活動等を支援する」趣旨であった。2007年度の「放課後子ども教室」への改編時に、学校の余裕教室等の活用が強調されるとともに、「地域の大人の協力を得て」というフレーズは大幅にトーンダウンされ、文書上は体験活動を差し置いて学習支援が筆頭に躍り出るようになった。
学童保育を知る人には、子どもが長机に鈴なりになって勉強しているのは見慣れた風景ではないだろうか。登室直後や帰宅前の1時間程度を勉強の時間とし、その時間は静かに宿題や読書等をしている。大げさでなく静謐な一時とでも形容できる学童もあり、そうした環境はぜひ大切にしてほしいと思う。
それに実は子どもは勉強が好きだったりする。嫌々宿題をこなす体験を思い出す大人は(私を含めて)少なくないが、数年前に関わったアンケート調査で「放課後にしたいこと」を小学生に尋ねたところ、特に1年生の多くが「勉強」と回答し驚かされた。たしかに先生方が宿題用に用意したプリントや、民間の通信教材は良く練られていて、見るからに楽しそうだ。「公文」に通う子どもが競うように教材に没頭していることもある。残念ながら高学年になると勉強イコール遊びという感覚は減り、子どもが騒いでしまう学童もあるようだが、勉強のための小一時間は、放課後の活動には重要と言える。
しかし、放課後子ども教室の場合、勉強時間の設定にブレーキがかかることもある。体験活動が趣旨であるとして、あえて学習活動を行わない地域もある。こうした「教室」では、子どもたちが高齢者と折り紙をしたりしている部屋の隅の机で、ひたすら机に向かう子どもを見かけることもある。その子どもたちは、教室として行うプログラムに不参加という後ろめたい存在なのだ。
また、特に学校内に開設される「教室」では、教育の権化であるはずの学校側が勉強の時間に横槍を入れるケースもある。計算方法等、学校の授業とは異なる癖を身に付けてほしくないといった理由だ。「近所のおじさん、おばさん」のやり方でも、塾で教わるような効率の良過ぎるやり方でも「癖」とされてしまうのであろう。黙々と宿題をやるくらいは目くじらを立てないでほしいが・・・。
一方で、地域によっては勉強を積極的に位置付け始めている。国が推奨する学習支援もこの文脈であり、いわゆる学力向上のための補助学習である。この場合、安全管理員の「近所のおじさん、おばさん」に宿題はともかく、「四谷大塚の予習シリーズ」レベルの対応や外国人児童等の指導をお願いするのは難しいため、退職教員や大学生が事業の担い手として浮上することになる。しかし当然ながら、そうしたボランティアの確保は容易ではない。(経済的に厳しくてアルバイトに追われる学生は少なくなく、有償であっても薄給で、学生の善意や就活(履歴書に活動実績が書けるので)を期待する公的ボランティアの推奨は罪深いと思う。この問題は別途また。)
放課後の勉強をめぐる問題は、公的な学校と、草の根の学校外教育の葛藤とも言える根深い歴史を持つ。1970年代当時盛んであった地域の子ども会における「勉強」について、体育教育や集団学習を専門とした千葉大学(名誉)教授の城丸章夫(1977)は、成功した子ども会は、勉強、それも学校の予習・復習をしている(47頁)と述べていたことを強く思い出す。
当時から、子ども会等の学校外の組織は勉強をしてはならないと信じている大人が、教師にも少なくなかったと言う。あえて子ども組織で勉強をしないと、当時流行り始めた塾に子どもを取られるという消極的な理由もあったようだが、勉強が必要な理由について城丸は、第一に、学校や家庭とは異なる勉強の仕方を学ぶことを挙げた。例えば上級生が下級生に、出来る子が出来ない子に教える「小先生」型の学習方法がある。逆に下級生が騒ぐ上級生を監督し、「学校ごっこ」のように大真面目な勉強の空間を作ることもある。いずれも子どもが楽しい勉強の時間づくりを工夫しており、その取り組みが子ども会では重要と言う。
第二に、学校や家庭では出来ない勉強をする意義がある(48頁)。当時の同和教育運動では、未解放部落の歴史を子ども会で学び、生活について語り合う勉強をしたと言う。また村の植物について図鑑や博物館を作ったり、新聞記事を集めてベトナム戦争について討論したりした子ども会もあったそうだ。
城丸は、子ども会の「生活臭さ」をモットーとした。学校は公的機関であるが、「公的」の本旨は「住民共同の」であったはずである。しかし、既に学校は「行政的」、「役人風」になり、社会や家庭の動きから一定の距離を置いている。学校は、社会の荒波から子どもを守るという名目で社会の動きを隠した「温室」になってしまった(49頁)。なので、同じ温室性でも、子どもの選択の自由を保障するための学校であってほしいし、特に子ども会は、選択のための思考の根拠と見通しを子どもに与える組織であってほしいと城丸は願うのである。
学校で学ぶことと地域で学ぶことの相関を大切に考えた城丸は、だからこそ学校内に子ども会が組織される傾向に警告を与えた。当時は教員組織や住民による「運動」が盛んな時代で、学校に不満を述べるための運動拠点を学校に置くことを城丸は諌めている。しかし、あえて学校外の組織を校内に置くことの意義も認めている。地域の活動を白眼視する学校の管理職を恐れてはならない、組織の指導者は挨拶に行くくらいの気構えがほしい(52頁)と語られるところに時代性を感じるが、学校文化と学校外の教育運動の邂逅を促す視点は、今日にも大きな示唆を与える。単に場所が無い、または校区内の連携のために必要にかられてという消極的な理由が出発点かもしれないが、子どもの教育環境を豊かにするための仕掛けとして、校内の設置は1970年代も、そして今も効果的に違いない。
今日の学童と放課後子ども教室を含めた放課後事業も、何も無い所に市町村が学校に置く施設、あるいは営利重視の民間施設が作られる方がどんなに楽か。余裕教室の活用や、子どもの安全面の配慮、保護者の払うコスト等を勘案して、そして小学生は小学校で、という単純な効率性を理由として校舎内での放課後事業の開設は推奨されている。しかし、保育園も十分でない上に小学生の放課後対策が皆無に等しかったために止むを得ず共同保育を立ち上げた保護者たちの歴史と、その歴史を知り現在は市町村や学校の重鎮となっている大人たちの葛藤は今日も続き、校内にある学童保育に満足に水やトイレを使わせなかったり、放課後子ども教室には好意的な地域住民が学童保育には抵抗感を示したりする例もある。かつての教員組織や住民運動なんて見当たらず、子ども会や学童保育に関わる親や住民には我が子の育児や自らの生活を何とか保つ力しか無い現状があったりするのに。
学習一つとっても学校と学校外の不要な葛藤の歴史を背負っていたりするが、放課後に勉強に没頭出来る空間は、それが集団か個人か、アクティブかどうか等はさておき、今日こそ不可欠だと私には思えるのだ。

*参考

2016年3月25日金曜日

本を自分で選べる場所の意義

 高橋美知子(2016)「幸せな『ちいさいおうち』」『婦人之友』2016年4月号、75-77頁 を読む


岩手県陸前高田市の子ども図書館「ちいさいおうち」の二度目の紹介記事。東日本大震災の爪痕の残る201111月に作られたトレーラーハウスの小さな図書館であるが、写真は岩波の名作絵本『ちいさいおうち』のようにかわいい。トレーラーハウスは明るいレンガ色で花々に囲まれており、室内には4,700冊の本が「キラキラ光っているように勢揃い」しているそうである。
この「おうち」は、岩手県盛岡市の総合福祉センター内で「うれし野こども図書室」を運営するNPO法人が、被災地支援事業の一つとして立ち上げた分室である。専任司書は東京子ども図書館の職員。他にも多くの機関等から支援を受け、陸前高田市教育委員会と連携して運営している。「うれし野」はストーリーテリングの講師派遣を行ったり、盛岡市の「放課後子ども教室」に指定されたりする本格的な児童図書館であるようだが、「ちいさいおうち」でも「おはなしの時間」や大人対象の「えほんの会」が既に根付いているようだ。
 記事では「おうち」のイベント、「子どもの本屋さん」が紹介されていた。「うれし野」理事長の高橋美知子氏が、銀座の児童書専門店(教文館でしょうか)で選書中に思いついたそうである。
「至れり尽くせりの配慮が行き届いた配架のもとに、良質の本たちがズラリと顔を揃え」る店内で「しぜんに笑顔になり、気持ちが清々しく高揚し、さて、どのコーナーから見ていこうかしらと」高ぶる心。予算と葛藤する厳しい仕事であるが、ふと「被災地の子どもたちは、このような経験をしていない」と気づく。「与えられることになれている子どもたちに、たくさんの本の中から、自分で気に入ったものを選ぶという経験をさせたい」と考えたそうである。
早速、行動されるところがすごい。それも「東京の専門店から店員に方にきてもらい、“おみせやさんごっこ”」というガチな「ごっこ」だ。隣接するコミュニティセンターの一室を借り、子どもたちが150冊の中から自分の好きな本を選ぶ経験をする。子どもは素早く本を選び、実際に書架に並んだ自分で選んだ本を「いそいそと」借りたり、その本を違う子が借りると得意そうになったりと、本に対する思いがいっそう深まる体験になったそうだ。
たしかに本を「選ぶ」体験は、「自分たちの図書館」という意識が育つ重要な契機となろう。もちろん、職員は「良書」を知るプロである。「子どもの本屋さん」は、そうした目利き(それも図書室と書店の両方)が選んだ本から選ぶという意味で子どもの自由な選書と言うには限界があるが、それでも「たくさんの本の中から自分で気に入ったものを選ぶ」ことは、記事のタイトルのとおり「幸せ」な体験である。それは、子どもが自分の意見や好みを言うことが出来、そしてその意見が大人や他の子どもに認められ、本当にその本が書架に置かれる体験であり、「自分の図書館」という帰属意識を持てるとともに、日々の生活にも自己肯定感や「幸せ」の感覚を高めることにつながり得る。
深刻化する子どもの貧困問題のバイブルとなった阿部彩氏の新書『子どもの貧困』では、「剥奪状態」を測る社会調査の存在と、日英の対比が印象に残った。
一般的な社会通念上の必需品が持てないと判断される状況を「相対的剥奪(deprivation)」と呼ぶそうだ。阿部氏は、「12歳の子どもが普通の生活をするために、○○が必要だと思いますか?」と20代から80代までの一般市民1,800人に問いかけたところ、子どもの必需品への支持は多くの項目で驚くほど低かったそうだ。「希望するすべての子どもに絶対与えられるべき」と過半数が支持したのは26項目中の8項目だけであり、「絵本や子ども用の本」がその8番目に引っかかったことは不幸中の幸いのようなものである。しかし、「誕生日のお祝い」や「おもちゃ」、「お古でない洋服」等は、「与えられなくても仕方ない・与えられなくてよい」と考えている人がきわめて多かった。一方、イギリスの同様の調査では、洋服やおもちゃ等の生死に関わらない物品や、水泳、レジャー活動等が「必需品」として高い社会的支持を受けているそうである。つまり、誕生日を祝われることや「新しく、足にあった靴」の無い子どもは、イギリスでは必要な物品や活動が剥奪された子どもと見なされてしまう。
辛うじて日本でも必需品と見なされた「本・絵本」であるが、しかしそれを自分で選んだかどうかで、意味が大きく異なる。いかに良書でも、大人による教育的(!)な選書や「お古」である場合、「剥奪状態」を本当に回避出来ているのか、この判断は慎重であるべきである。舞台を図書館に戻して述べるなら、好きな本が並ぶ空間を「贅沢だ」と否定されない世の中であってほしい。
近年は「居場所としての図書館」論を良く聞く。夏休み明けの子どもの自殺が問題となり、「図書館に逃げて」と呼びかけた神奈川の鎌倉市図書館のTwitterは一躍有名になったが、図書館学の根本彰氏も「図書館居場所論」の日本での広がりを東日本大震災の前から指摘していた。もっとも根本氏によれば、電子図書館論のアンチテーゼとして「場所としての図書館論」が育つはずだが、ハイテク日本ではなぜか電子図書館論は発達しないまま、日本独自の「居場所論」が発展したようである。
おしゃれな「ツタヤ」等と民間型の経営が注目を浴びる一方、厳しい予算枠で貸出冊数の指標や管理者の問題、統廃合等に縛られるのが近年の図書館像である。居場所としての図書館という考え方と実践は強く支持するが、本で勝負してほしい。子どもにとって「本がいっぱいある」、「自由に選べる」ための、教育課程上はカオスかも知れない潤沢で非日常的な蔵書や選書の機能は、世知辛い世の中であるからこそ大切にしてほしい。それにしても「ちいさいおうち」には年齢制限が無ければ(?)ぜひ訪問させていただきたい。

*参考

  • 阿部彩(2008)『子どもの貧困:日本の不公平を考える』岩波書店、180-198
  • 根本彰(2011)『理想の図書館とは何か:知の公共性をめぐって』ミネルヴァ書房、64-65
  • NPO法人うれし野こども図書館(Webサイト)「3.11被災地支援事業 I.東日本大震災被災地陸前高田市に子ども図書館『ちいさいおうち』を設置」 http://ureshino-cl.jp/tohoku311.html
  • 鎌倉市図書館(Twitter)「もうすぐ二学期。学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい。マンガもライトノベルもあるよ。一日いても誰も何も言わないよ。9月から学校へ行くくらいなら死んじゃおうと思ったら、逃げ場所に図書館も思い出してね。」2015年8月25https://mobile.twitter.com/kamakura_tosyok/status/636329967668695040?lang=ja

2016年3月21日月曜日

中高生に薦めたい春の博物館

  1. サントリー美術館(東京都港区)展覧会「没後100 宮川香山」(主催は他にNHKNHKプロモーション、読売新聞社)2016年2月24日〜4月17日 http://www.suntory.co.jp/sma/exhibit/2016_1/
  2. 横浜美術館(神奈川県)企画展「村上隆のスーパーフラット・コレクション:蕭白、魯山人からキーファーまで」(主催は他に日本経済新聞社)2016年1月30日〜4月3日 http://yokohama.art.museum/special/2015/murakamicollection/index.html


  明治期の横浜で、輸出陶磁器制作の先駆者となった初代・宮川香山。思わず息を呑む超絶技巧「高浮彫」が特徴で、鬱陶しいほどデコラティブでゴージャスな「真葛焼」は欧米のコレクターに愛され、それらを買い戻した神奈川在住の田邊哲人氏の1,500点以上とされるコレクションが日本随一とか。
サントリー美術館の展覧会は、インパクトが強烈な代表作揃いだ。背中を丸めた白黒の斑(毛並みも見える!)の猫(日光東照宮の眠り猫がモチーフらしい)を、金色の瞳を見開き白い歯がのぞく半開きの口で下から見上げる体勢(図録によると「今まさに目覚めた表情」で、田邊氏によると「いない、いない、ばー」らしい)で蓋の上に載せる水指や、第2回内国勧業博覧会出品作品(その後、博物館(現在の東博)が買い上げる)で現在は重文指定を受けた、ひしゃげた陶製の鉢に艶光りするタラバガニが跨がる花瓶等。「高浮彫」では無く、田邊氏の書籍の写真では今一つ魅力が分からなかった花瓶は、高さ30cmに満たない藍色(瑠璃釉)の地に白釉で無数の文様(宝尽し文等)が敷き詰められ、三羽の鳳凰(田邊氏のイメージは漫画家・手塚治虫の火の鳥)が所狭しと羽を広げ、きめ細かく盛られた白の文様と地の藍色が一寸の隙間無く混ざり合う絶品だ。ふと、この展覧会は特に中高生に薦めたいと思った。
第一の理由は、そのスーパーリアルな描写である。猫や鶉、鬼等が、驚くほど精緻かつ躍動感をもって表現される。毒々しいほど鮮やかな色合い、細か過ぎる大量のモチーフ、サービス精神旺盛な生き物のポーズ等々が「分かる」という感覚をもって鑑賞出来る。対象が具体物で、おそらく言葉にし易いのだ。
第二の理由は、予備知識が無くても十分楽しめ、第一の理由につながるが、「分かる」という感覚を持てる上、語り易いのだ。真葛焼や横浜焼等々は教科書に載っていない。残念ながら今月末で閉館する横浜市青少年交流センターがある野毛山にかつて「花屋敷」があり、その前は京都出身の香山が横浜に最初に開いた窯場であったことは、田邊氏の書籍で初めて知った。そうした史実も研究の途上で、また超絶技巧と呼ばれる高度な技術と、投機対象としてのゴージャスさを競い、純粋なアートとして十分に評価されなかった分野であるので(後に香山は帝室技藝員に任命され、芸術としての陶芸を確立させるが)、蘊蓄抜きで自由に、また横浜市民であればより親近感を持って語れる作品群なのだ。
第三に、SNSを利用した楽しみ方が出来る点だ。もう一つ、横浜美術館の村上隆コレクション展を中高生に推したいが、香山展とともに条件付きだが(死語かも知れないが)「写メ」OKであり、Twitter等で「見た!」という画像とメッセージが行き交っている。希代のコレクターとしての力量と、大量の作品群で構成した独自の小宇宙を見せつけた村上隆展では、どこでも(作品のみを撮らなければ)OKである。堂々とスマホで楽しめる今時のサービスである。香山展は、撮影可能場所が階段下に広がる吹き抜けのスペースで、「ぜひ撮って」と言わんばかりのベストポジションとなっている。それも、太目のロボットのような獅子が蓋に載る「金ぴか」な対の壷の胴部の窪みに愛くるしい蛙が太鼓を叩いたり図巻を広げたりしているような、思わず接写したくなる作品ばかりだ。
等々の理由で、ぜひ中高生には一人で、あるいは友だちと、騙されたつもりでまずは展覧会に行ってほしいと思う。校外学習や家族旅行等で行かない限り、博物館、特に美術館は中高生にとって縁遠い施設ではないか。よほど美術に関心が無い限り、こうした展覧会の情報そのものが入ってこないだろう。
村上隆展を開催中の横浜美術館では、中高生対象のプログラムが注目される。昨年の夏は、火薬を使うパフォーマンスで知られる蔡國強の展覧会で、中高生が小学生を案内するというワークがあった。また、六本木の森美術館の中高生プログラムと連携し、中高生同士で互いに訪問し合い、案内もし合うという心憎い交流も行われた(当時森美はベトナム人アーティスト、ディン・Q・レの企画展を開催中)。学校での利用は当たり前になったが、中高生が個人参加出来るプログラムは未だに少ない。中高生は部活や塾が忙しいから、という理由も分かるが、近所の美術館に立ち寄ってみたいと考える、あるいはきっかけがあれば訪問する中高生は実は数多く潜んでいるのではないか。
彼等の利用を阻む要素は、まず情報が少ない問題があるが(だからこそSNSに期待したい)、生身の善き案内人(ガイド)の稀少さである。悪い意味で上から目線の教師で無く、今時の言葉で言えばメンターのような、お兄さん・お姉さん的存在である。香山展では運良くコレクター、田邊氏の講演会を聴講出来た。学会を担う専門家では無く、商売人や「ちょいワル」(これも死語か)のオトナ目線であり、語り口も内容もフランクでありながら「香山愛」が伝わる、良い意味で子どもっぽい真摯さがある。氏は「スポーツチャンバラ」の創始者で、日本スポーツチャンバラ協会の会長を務められているそうだ。そうした「子ども目線」の持ち主は、年齢に関係なくガイドに相応しいのではないか。氏のような人に出会えれば、微妙な年頃の中高生も足を踏み入れる気になるかも知れない。
入館料の問題もある。香山展は、中学生以下は無料だが、高校生は大学生と一緒で1,000円かかる。村上隆展も高校生は大学生と同じで900円、中学生も有料で400円である。香山展を開催するサントリー美術館は赤坂のミッドタウンにあり、エリア全体の年齢層が高い。「和」がコンセプトの館に着物で来館する「きもの割」で100円オフになる。携帯サイトの画面の提示による割引サービスもあるが、制服(学ラン?)割引でもしない限り、やはり敷居が高いと思う。村上隆展は、土曜は高校生以下無料という太っ腹な計らいであるが、今は試験休みや春休み等のシーズンなので平日こそ広げてほしい。「夜のアートクルーズ」なる魅力的な夜間ツアーは、18歳以上が対象である。午後7時終了で良いので、中高生向けの遅い時間帯のツアーもぜひ企画していただきたい。
割引絡みでもう一つお薦めを。神奈川近代文学館(神奈川県横浜市)でもうすぐ始まる夏目漱石展では、漱石作品を紹介する「POP」を募集している。郵送も可能で(出来はともかく)応募すれば、もともと100円の高校生料金は無料となる。
中高生が博物館に来るにはどうしたら良いか、そもそもその必要はあるか、中高生と、まずは身近な大学生の意見を聞いてみたい。もうすぐ新年度が始まる。

*参考

  • 田邊哲人(2011)『大日本 明治の美 横浜焼、東京焼[増補改訂版]』叢文社
  • NHKプロモーション編集・発行(2016)『没後100 宮川香山』(展覧会図録)

2016年3月18日金曜日

子どもの居場所としての銭湯

 NHK総合・特報首都圏「『銭湯』ルネサンス」2016年3月18日 を視聴する


特報首都圏の銭湯特集。高齢者のコミュニティ云々のお話と思いきや、小学生が一人で入れる銭湯が! しかし、どこのお風呂か聞きそびれ残念。
今時の入浴料は一人460円。子ども料金(小学生は180円、未就学児は80円)は低めだが、「親とセット」が原則なので、牛乳やマッサージ機(特集はスタイリッシュな銭湯も紹介していたが)等も加えると一家で1,000円は超えるのが相場だ。
しかしその銭湯は小学生の一人入浴が出来る。タオル貸出無料なので、180円で入れることになる。映像では、風呂上がりの高学年男子が5、6人で白いテーブルを囲みつるんでいる。つぶれかかった銭湯であったが、「銭湯再生請負人」が辣腕を振るい、朝6時から営業して銭湯好きの高齢者や通勤前の会社員に愛される銭湯に生まれ変わったという。そして、共働きの親が増えたため「子どもの居場所を作る」という思いで、夕方の子ども一人入浴を始められたそうだ。
親子一緒という銭湯業界の常識を見直し、親子一緒に来られる訳がないという時代のニーズを汲み取り、さらに子どもにとって寛げる場を作ろうとする採算度外視の社会事業に見える。もちろん将来的な「お客さん」を育てる狙いもあろうが、子どもの居場所づくりのモデル事業に推薦したい試みである。
番組では子ども絡みとしてもう一つ、神奈川県藤沢市の「銭湯体験」を紹介していた。小学校の「おやじの会」のメンバーが、定期的に小学生を銭湯に連れて行く活動である男子に限られるが10人くらい入って賑やかそうだ。「サッカーが一次会としたら、銭湯は二次会」(←名言!)のように子どもに銭湯に慣れ親しんでほしいという狙いがあると言う。さらに深い狙いには、コミュニケーションが希薄な時代だから、という思いがあるそうだ。
 放課後の居場所としての銭湯。思いがけない組み合わせだが、ぜひ注目したいし応援したい。子どもの銭湯利用について検索したところ、クラウドファンディングのサイトで「ひとりぼっちの子どもの居場所づくり事業:倉敷トワイライトホーム」なる事業を見つけた。目標金額60万円で、今年2月にクリアされている。「公益財団法人みんなでつくる財団おかやま」が企画し、「親が家におらず一人で過ごしている小中学生を対象に、公園で一緒に遊んだりご飯を一緒に作って食べるなどの生活支援を行います。この活動を通じて、地域住民とともに子どもの成長を見守ることができる体制の構築を目指します。」という趣旨だ。社協やNPO等と連携してスタッフの学生(倉敷の事業なのになぜか川崎医療福祉大学の子ども支援サークル)が週2日活動する。で、銭湯とのつながりについては次の記載があった。
 「地域の銭湯などにも共に通い、子どもと地域のつながりを生み出していきます。」
まさに本日の番組のコンセプト、「コミュニティ銭湯」の体現である。
銭湯とコミュニティ形成の結び付きは、実は荒唐無稽ではない。学生時代、(正式な題目は曖昧だが)「銭湯と社会教育」なる卒論が社会教育学研究室の口伝えの伝説になっていた。書いた本人は大学院に進学せず企業就職をしたそうだが、週末は「コミュニティ銭湯」運動に勤しむ好々爺になっているかもしれない。
小学生を含めた若者を見守る「ロビー活動」を重視してきた神奈川の横浜市青少年交流センター(ふりーふらっと野毛山)が今年3月末で閉館と聞く。放課後の居場所はますます管理された空間に、あるいは自宅の狭い部屋の中に収束してしまうかも知れない。地域の人々の銭湯愛(?)と発想の柔軟さと行動力、また気っ風の良さに、放課後銭湯の、そして社会教育の可能性を見た思いである。

*参考

2016年3月12日土曜日

社会教育の位置付け

全国都道府県教育長協議会第2部会(2015)(平成26年度研究報告 No. 2)「学習や社会生活の困難を有する子供・若者に対する社会教育による支援の在り方について」2015年3月 を読む http://www.kyoi-ren.gr.jp/report/H26bukai/h26_nibukai.pdf

直近の『内外教育』によると、教科書会社といわゆるIT業者を主な会員とするデジタル教科書教材協議会(DiTT)のシンポジウムで、文部科学省「『デジタル教科書』の位置付けに関する検討会議」の座長が次のように述べたと言う。
同会議の担当が省内で情報教育を主務とする生涯学習政策局情報教育課で無く、「『検定等でデリケートな教科書制度を担っている』初中局教科書課である」のは、「IT業界の人から見れば(検討の仕方が)慎重過ぎるように見えるかもしれないが、逆に言えばそういう『本丸』の課が担当している、ということが制度改革上、重要」とのこと。
シンポジウムはデジタル教科書をビジネスチャンスと狙う業界関係者が多く、教育工学研究の第一人者である座長のリップサービスの意味合いもあろうと拝察される。それを差し引いたとしても情報教育課、翻って生涯学習政策局は酷い言われようである。法改正等を実現させるには、デリケートな問題を担当する能力も気負いも無い窓際の生涯学習部門で無く、国の本丸である学校教育部局が所管することこそ必至と公言されているのだ。
現実問題として、生涯学習と同様に周辺的な(!ICT施策が実効性を持つためには、初中局の管内に位置付けられることは必定か。学校教育にあらずんば、という力関係が顕著な教育行政において、哀れ生涯学習と言いたくなる。
そもそも生涯学習について世間一般の理解は乏しい。教職課程の学生でも「ユーキャン!」と答え、自治体や大学の生涯学習センターや、公民館での高齢者教室をイメージするようだ。強ち間違いでは無いが、通信教育やカルチャーセンター(それも資格を狙うガチなものから世界遺産のようなハイソな講座、シニア層の「生き生き体操」まで広がる多様さ)、図書館に博物館、更に放課後事業まで、なぜ同じ「生涯学習」という括りなのか、学生にはカオスである。教育原理や教育行政のテキストで、学校以外の領域は良く分からないまま執筆を任された若手研究者がP.ラングランは・・・等と崇高な理念を調べたまま書いたりして、読む者をさらに混乱させるケースも少なくないのではないか。
理念上の生涯学習は、学校教育と社会教育、家庭教育を縦横に包括する、たしかに崇高な概念である。しかし行政上の生涯学習は、戦後以来の社会教育に等しいと言った方が分かり易い。語弊を承知の上での辛い言い切りであるが。
1986(昭和61)年に当時の中曽根内閣の臨時教育審議会第二次答申で産学官を挙げた生涯学習体制の整備が打ち出され、2年後に当時の文部省社会教育局が生涯学習局(現・生涯学習政策局)に再編されたことで、内閣府からやって来た生涯学習社会という「黒船」は、「本丸」の学校教育はスルーして、全国の社会教育行政を生涯学習(振興行政)へと変えていった。
そして今日、国の生涯学習振興行政はどうなっているか。教育白書にあたる『平成26年度文部科学白書』第3章の「生涯学習社会の実現」では、具体的な施策が次のとおり挙げられている(一部抜粋)。
  • 第1節「国民一人一人の生涯を通じた学習の支援」・・・放送大学、大学公開講座、専修学校教育、社会通信教育、民間教育事業者・NPO法人との連携、高等学校卒業程度認定試験、学校外での単位認定・学位授与、地域や大学における人材認証制度、社会人の学び直し(職業教育プログラムの開発)
  • 第2節「現代的・社会的な課題に対応した学習等の推進」・・・少子化対策、高齢社会への対応、人権教育、男女共同参画社会の形成、児童虐待の防止、消費者教育、環境教育、読書活動(学校図書館、地域等)
  • 第3節「社会教育の振興と地域全体で子供を育む環境づくり」・・・社会教育推進体制の強化、地域コミュニティ形成(社会教育施設)、子供の学びを支援する取り組み(学校支援地域本部、放課後子供教室、土曜授業、PTA等団体)
小中高と並ぶ体系的な学校教育に比べ、やはりカオスと言うより他に無い。第一に、教育のメインターゲットである子ども関連の施策は、学校が少しでも扱う事項は一切抜かれている。なぜなら社会教育は「学校の教育課程として行われる教育活動を除き」(社会教育法第2条)組織される教育活動だからだ。第二に、国と地方公共団体は社会教育を奨励し、生涯学習の振興に寄与するために、国民が「自ら文化的教養を高め得るような環境を醸成する」(社会教育法第3条)任務があるとされ、指導で無くあくまでも「奨励」で、環境醸成(促進行政)に止まり、しかもそれらは努力義務という制約がある。家庭や地域住民との連携等の要素も入り、本質的な混沌さを持つ生涯学習こと社会教育は、「チーム学校」論のように学校教育が拡大する気運の中でさらに骨抜きになりそうだ。
しかし、子どもの貧困や文化格差の問題が根深い今日こそ、社会教育の役割はきわめて重要である。例えば昨年夏の『月刊社会教育』は「貧困に立ち向かう子どもの育ち」というタイトルの特集号であった。至学館大学の高橋正教氏が指摘されるように、社会教育は学校教育の中で組織されていない「教育の新領域の存在を提示」する視野と役割を持ち、地域住民の学習要求と地域づくりに応えてきた。障害者や在日外国人等の社会的少数者や貧困層の教育保障の実践の蓄積をもって、社会教育学研究として「教育福祉」が提起されてきた経緯がある。今こそ、この教育福祉論の視座が求められると氏は述べ、私も大いに首肯する。
残念ながら、教育福祉論の理論研究、つまり教育と福祉を結ぶ原理と、社会教育として福祉問題を扱う方法論とコンセンサスは十分に確立されていない。また、民間の創造的な実践が目覚ましい一方で、行政社会教育は現代の子どもの問題に十分に向き合えていない印象もある。この現状をあぶり出したのが、昨年春に公刊された全国都道府県教育長協議会による研究報告である。
同研究は、「困難を有する子供・若者」を対象とした、社会生活を営むための「人とつながる力」の育成を中心とした施策を、都道府県や市区町村の社会教育部局がどのように取り組んでいるか、現状把握と事例収集を行う趣旨である。「困難を有する子供・若者」とは主に次の4種である。

(ア)経済的、地理的条件が不利な子供への支援
(イ)不登校、ひきこもり等の子供・若者及び高校中途退学者への対応
(ウ)障害のある子供・若者に対する支援
(エ)非行・犯罪に陥った子供・若者に対する支援

都道府県では特に(イ)の取り組み数が多く、市区町村では(ウ)と(イ)、また(エ)が多い。今後関わっていく必要性の高い取り組みは、都道府県と市区町村がともに(イ)を多く興味深い。また、子供・若者に対する取り組みは全体的には、回答数47の都道府県のうち3983%)で行われていたものの、市区町村では回答数277のうち14051%)が取り組んでいると回答している。市区町村は半数に過ぎないことも注目される。
さらに注目されるのは、こうした取り組みを行っていない理由である。都道府県、市区町村ともに「他部局が既に取り組んでいる」という回答が多く、理由の記述には以下のものがあった(77頁、119-120頁)。
  • 調査の対象となる事業は、生涯学習課の施策として取り組んでおらず、他の部局(義務教育課、高校教育課、環境生活課)等が取り組んでいる[都道府県]。
  • 青少年に関すること一般については知事部局の青少年課が、児童虐待等の児童擁護に関しては、同じく子ども家庭課が担当している[都道府県]。
  • 困難を有する子供・若者に対する支援は以前は社会教育部局で行っていたが、平成20年度に行われた機構改革により担当事務が分割され、現在は学校教育部局が主管している[市区町村]。
取り組みを行っていない理由は、「ニーズや情報を把握していない」という回答が次に多かったという。記述の代表的なものは以下のとおりである。
  • 学校教育以外での実態やニーズの把握を行っていないため[都道府県]。
  • 町民からの要望等が無いので[市区町村]。
  • 対象事例がほとんど無く、人的リソース(役所、民間ともに)が不足しているため[市区町村]。
また、調査の前提そのものへの疑義も見受けられる。
  • 他部局で取り組んでいる。社会教育課の所管業務ではない[都道府県]。
  • 困難を有する子どもや若者に対して、社会教育部局で支援するという考え方がなかった[市区町村]。
社会教育イコール集合学習という認識からか、以下の回答もあった。
  • 社会的な課題としてはあると思いますが、周りに知られたくないという気持ちもあり、実施した時の子どもたちの参加は難しいと考えるため[市区町村]。
同報告は最後に「今後に向けて」として社会教育部局への提言をまとめている。先進的な事例が多く見出されたものの、全国的な取り組みと、それ以前のニーズの把握と社会教育部局で支援を行う必要性の認識を求める趣旨である。子どもの「人とつながる力」や「社会とつながる力」を身に付けていくための社会教育の視点からのアプローチ、例えば居場所の確保等の間接的な支援や、他の自治体を含めた関係機関のネットワークの構築が挙げられている。
こうした提言は、まさに黒船効果が期待出来るように思う。学校教育や福祉行政への不要な遠慮や、社会教育主事等の人的資源不足と管轄する場の縮減により、社会教育は本領を発揮できていないのかも知れない。自虐的に言えば、混沌さを生かした柔軟性をもって、教育と福祉の領域を跨ぐ実効性のある(と言っても間接的支援中心で見え辛いが)事業を展開してほしいと願う。このブログも教育環境醸成の願いをもって名付けたつもりである。

*参考文献

  • 渡辺敦司(2016)「『デジタル教科書』は教材扱い」『内外教育』2016年3月8日、6頁
  • 高橋正教(2015)「教育福祉の視座としての社会教育」『月刊社会教育』2015年8月号、4-10