2016年4月23日土曜日

小・中学生の「キャリア教育」を考える

ドキュメンタリー「With ... :若き女性美術作家の生涯」(監督:榛葉健、制作:毎日放送、60分、2000年) を見る

 http://with2001.com 

 素敵なドキュメンタリー映画を見大阪芸大出たてでネパールの貧困地区の福祉学校ボランティア教師として飛び込んだ佐野由美さんが駆け抜けた、濃厚な一年間の物語だ。
 行動力と好奇心に溢れ、超高速で絵を描き続け、誰とでも友人になってしまう人間的な魅力もいっぱいの佐野さんその優秀さは、最初はカタコトの単語だけだったのが、二ヶ月後には浪花のべらんめえのようなネパールで子どもたちにまくしたて市場の男性にも一目置かれる存在となった呆れるほどの言語力と適応力十分見て取れる。しかしその舞台は土埃が舞い上下水も完備されず衛生面治安上も問題が多過ぎる上学校に通うこと自体が当たり前でない環境だ。作家として、教師として、そして一人の人間としての奮闘が有機的に絡み合い、児童やその家族、ホームステイ先の家庭をはじめ彼女に関わる人々の暮らしや将来に向けた考え方が明るい方へ、新しいステージへと引き上げられていく様子圧巻だ。まさにスラムので光を放つ聖人を見た思いであるし、教師を目指す学生こそぜひ見てもらいたいと思った。 
 佐野さんは栄養失調の女児を心配し、掃除婦として僅かな日銭を稼ぐしかない母親に私費で購入したビタミン剤を手渡し、母親は佐野さんのことを「命の恩人」と語る。街の中を子どもと歩き回る場面もあったが、子どもたちが笑顔で由美先生の腕にしがみ付いている様子にも、佐野さんが体当たりで子どもや大人に接してきて、絶大な信頼を得てきたことが分かる。 
 その彼女が、美術の授業内容を大きく方向転換したエピソードは、社会に巣立つ子どもに向けて学校教育に何ができるを考える上できわめて示唆的であった。つまり彼女は、厳しい環境で生き抜くことが宿命付けられている子どもたちの卒業後を見据え、いわゆるファインアートで無く、切り絵細工に内容を特化させたのだ。 
 飛行機で乗り合わせた初対面の人でも2、3分で軽快な線で似顔絵を仕上げ、その人となりの描写に野次馬も一緒に盛り上がるほどの画力を持つ佐野さんである。ネパールに赴任した当初は、子どもたちの心が豊かになるようにと絵画を描く授業を行っていたようだ。しかし子どもに日常に触れるにつれ、生活の糧となるような技術を身に付けさせたいと考えるようになり、切り絵にシフトする。 
 売り物になるレベルが求められるので指導はたいへんである。切り絵というヒントを現地の職人から得たというバイタリティ溢れる由美先生は、超絶技巧な鋏技(はさみわざ?)と浪速風の弾丸トークで子どもたちを引っ張っていく鈴なりになった小さな子どもが切っ先が鋭利で細長い鉄製鋏を動かしているのは相当危なっかしく、日本ではあり得ない光景であろうが切り出した取り取りの紙は繊細なレース模様のようで綺麗だ。真剣な表情で張りつめた教室の空間が、色とりどりの作品と子どもたちの満足した笑顔と歓声とでいっぱいになっていく。 
 本当に切り絵で生計を立てる卒業生が出たり、夢話をすれば、その子どものファミリーや、コミュニティのビジネスに発展した成功も生まれるかも知れない。しかし、あの教室に居合わせた子どもは少なくとも、細かな作業をやり遂げたことへの達成感と自信に加え大好きな由美先生の称賛と、鮮やかな作品を手に喜び合った仲間や先生方との瞬間が、その後の甘い訳無い人生を生き抜くための一つの指標となり財産となったのではないだろうか。 
 ちょうど PBS NEWSHOUR でアメリカ・テネシー州の犯罪が頻発する危険な街で、警察も総出で子どもたちの教育環境を守っていく取り組みをレポートしていた。そこでもアートワークは重要な役割を果たしていた。もちろん安全・安心は大前提だが、子どもの育ちにアートが必須の栄養素となり、大人がコミュニティに関わる媒体の役割を果たす 
 由美先生が去った後も、現地の先生によって切り紙作りが受け継がれている学校の様子は、映像で記録されている。「手に職を」という由美先生の思いは、学校と、その子どもたちに確実に力を与えているのだ。まさに社会を生き抜く力を培う姿を教えてもらったように思う。 
 実はもう一つ、タイ発の劇映画の試写の機会に恵まれた。こちらは水上学校が舞台とは言え、タイGHT社制作のおしゃれなフィクションで、先生同士(主人公は日本で言えば「キムタク」や「マツジュン」にあたるタイで大人気のポップシンガーだとか←だから際どいシーンは皆無)のラブストーリーがメインである。 
 だが、はっとさせられるエピソードがあった。都会の学校で、日本で言う(?アクティブ・ラーニングを実践しようとして文字通り島流しとなった水野美紀似の(!)理想に燃える優秀な女性教師が、水上学校の子どもたちに将来就きたい職業を問う。すると、(いやに都会的な)子どもたちが何の屈託も無く、親の職業である「漁師!」と答える。エンジニアや医者という答えや出世欲が無いことにショックを受けた先生は、同僚や、後に主人公が目にすることとなる日記にそのことを愚痴るが、次第に船上での貧しくとも思いやりで溢れた家族生活を大切に考える価値観に共鳴するようになっていく。 
 後任の水上学校教師に就いた主人公に至ってはさらに、成績が悪い以上に将来は漁師になるし、実際に家業を手伝う必要があるしで学校に来なくなった男子児童の家(船だが)に通い、屈強そうで頑な父親を拝み倒し、その児童を学校に来させる代わりとして週末は先生が湖に潜って漁を手伝うという荒業をやってのける。そうして学校に戻った子どもは、体育しか自信の無い「ダメ青年」の主人公の力不足で落第してしまうが、水上学校に返り咲いた女性教師の指導の下で見事、卒業試験に合格するというハッピーな落ちもある。終盤で二人の教師は、偏差値的な物差しではもちろん底辺校であるが、社会に出るための実践的な学力と、嵐で船が大破しても遊び心をもって粘り強く船を修繕していけるような逞しさ、仲間や先生を含めた大人を信頼して協働出来る力、そして将来を明るく楽しいものとして見られる前向きな気持ちを育む水上学校の素晴らしさを、船上で初めて灯された電燈の下で伝え合う残念ながらラブストーリーが本題なので、子どものキャリア教育としてのそれ以上の深入りは野暮であるが・・・。 
 さらにもう一つ、小・中学生のキャリア教育を考えるネタに使える!と思われたのは、天下のNHK「Eテレ」の今年度の新番組、「コレナンデ商会」だ。平日朝、わずか10分であるが、パペットとジェイさんこと川平慈英氏の掛け合いが楽しい、幼児向けの音楽番組である。 
 詳細は忘れてしまったのだが、ジェイさんが「がんばれば何でもできる♪」とサッカーボールを蹴りながら力強く歌って踊るのだが、番組の終盤でパペットのブルブルさん(声はえなりかずき氏)が小さな棒人形の「カエル」をけしかけジェイさんに仲良くするよう促すジェイさんは「できない〜得意なサッカーなら出来るけど・・・」と言う落ちで終わる。 
 そう、これは正しい番組だ。望めば何でもできる、何にでもなれる!という進路指導もどきは、ときに有害であり残酷だ。もちろん夢をもち努力することは必要だが、「一人ひとりの意欲や個性に基づく」という、一見科学的で平等な理論武装をした「やりたいこと」や職業探しは、闇雲な発破掛けや、「結果」を個人の能力や努力の不足に責任転嫁する恐れはないか。 
 教育学者、児美孝一郎氏による、その名も『キャリア教育のウソ』という新書の言葉を借りれば、「夢追い型のフリーター」を量産する「俗流キャリア教育」(82-83頁)には警鐘が鳴らされるべきだろう。そして児美氏が子どもたちに呼びかけるように、基本的な情報が欠落した「未来マップ」に頼らず、キャリアデザインのマインドを磨いて自分なりの「羅針盤」を持つ(181頁)ことが重要と言える。 
 現在、中学校キャリア教育は、「職場体験」を中心に充実した取り組みが見られる。しかし普通科が大半を占める高校への進学率が100%に近い今日、具体的な職種を決めあぐねる中学生の方が当たり前である。小学生であれば尚更である。いたずらに特定の職種を煽る事無く、強靭な「生きる力」を養ってほしいと思う。 
 ところで直近の内閣府調査によると、小学生女子の「将来就きたい職業」の第1位は「パン屋・ケーキ屋(パティシエ含む花屋」(11.4%で、僅差で「幼稚園・保育園の先生(保育士)」と、看護師・介護福祉士」が続く。小学生男子の第1位が「スポーツ選手」で、それも3割以上を占めることに比べると、女子児童の堅実さが浮かび上がる。なお「学校の先生」は小学生女子の第9位であり、男子にいたっては第5位の「大学教授、科学者」、第9位の「会社員」に遠く及ばない「圏外」である。女子にとって「先生」や「保育士」はどのような意味を持つのだろうか。それは明るい未来であればという楽観論を持ちながら、近いうちに「キャリア教育」の授業で、教職を目指す学生と考えてみたいと思う。 

*参考

2016年4月10日日曜日

“チーム学校”時代の“地域の教育力”

久田邦明(2015)『生涯学習の展開:学校教育・社会教育・家庭教育』現代書館 を読む 


 内閣直属の諮問機関である「教育再生実行会議」が教育改革案を打ち出し、中央教育審議会(中教審)がその後追いをするような状況が続いている。教職課程の授業で扱う素材が豊富かつ新鮮なことはありがたいが、現政権の意向が矢継ぎ早に具体化される展開の早さと、例年の予算折衝で財務省に押されて低予算の遣り繰りとなり、教員の定数確保のほか幼児教育や高等教育の無償化等の根本的な問題はさておいて低予算で施策化できる、言わば現場の工夫や努力で賄われる改革や新規事業が優先される実態に、疑問と不安を覚えることが少なくない。その一つが「地域の教育力の低下」に関わる施策だ。
特に1996年の中教審答申「21世紀を展望した我が国の教育の在り方」が出てから、「地域の教育力の低下」というフレーズは、教育改革が必要となる元凶の一つとして様々な文書で枕詞のように付される感がある。学生の小論文にも、「地域と家庭の教育力の低下」が書き出しに判を押したように使われたりする。「三丁目の夕日」のような素敵な人間関係や相互扶助のような機能は、今日ではたしかに低下しているのだろう。しかしだからといって学校教育ですべてを抱え込むような施策化に拍車をかけるのは、一呼吸置いて欲しいと思うのだが。
その先鋒が「チーム学校」である。「教育再生実行会議」第五次提言(2014)をふまえ、昨年末に中教審の答申が三つ揃って出された衝撃は(「1221日」と諳んじられるほど)大きかった。大学の職務上、圧倒的なインパクトを持つのは教員養成関係の答申であるが、その他にくだんの「チーム学校」と、研究上で注視している「コミュニティ・スクール」と言いますか「地域学校協働本部」がキーワードとなる答申の三つ巴である。教員養成改革に加え、「学校を核とした地域づくり」と、「学校組織全体がチームとして力を発揮する」体制がタッグを組んで学校を支えていくことが、「1221日」に提言されたのだ。
「チーム学校」とは、教員以外のスタッフが少ない(日本は教職員総数の82%が教員だが、イギリスは51%らしい)、児童生徒のニーズの多様化(特別支援教育、貧困等)、教員の勤務時間が長過ぎる(TALIS調査の参加国平均は約38時間で日本は54時間(汗))といった現状をふまえ、主幹教諭や事務職員等の他、スクールカウンセラー(SC)とスクールソーシャルワーカー(SSW)等の専門スタッフの配置を拡充させる施策だ。「教職員構造の転換」とタイトルが付けられた通り、SSW等を積極的に配置して教員が「授業など子どもの指導に専念」できるよう、抜本的な学校運営、さらに言えば学校文化の改革を行う趣旨だ。
話題を集めたのが「チーム」の一員として、「部活動指導員(仮称)」が提言されたことだ。実業団OB等の競技に精通したアマチュアが想定されている。対外試合の引率も可能な指導員の導入は、運動部や、複数の部活動の顧問となった教員の過重勤務の常態化の梃入れとして、たしかに進んでほしいと思う。
しかしその前に、「ブラック部活」という言葉が囁かれ、実は「顧問」の位置付けも不確かとして問題視される部活を、さらに専門化して維持していく必要はあるかという根本的な問題が残る。また、一連の答申では「社会に開かれた教育課程」が謳われ、学校側の地域連携や地域の学習資源の活用等の文脈は見えても、地域社会の中で子どもが育つというイメージが、どうも見えてこない。
で、学校と地域が対等のパートナーになり得ていない要因に、「地域の教育力」問題が横たわっているように思えてならない。くだんの「チーム学校」を提言した中教審答申では、「低下」と言わずとも学校と地域の関係の「変容」として、次のように地域連携のスタンスを示している。
 「元来、学校は地域の中にあるものであり、地域の協力や支援のもと、教育活動を展開してきた。その上で、近年は家庭や地域の力を学校に取り入れていくため、学校評議員制度、学校運営協議会や学校支援地域本部等の仕組みや学校の情報公開の取組が進められてきたところであるが、高齢化や過疎化が進展する中、学校と家庭や地域との関係についても従来とは変化が見られる。
 学校が抱える課題が複雑化・困難化している状況の中、課題を解決していくためには、学校がより一層地域に開かれ、地域住民や保護者等が学校運営に対する理解を深め、積極的に参画することで、子供の教育に対する責任を学校、家庭、地域と分担していくことが重要である。」(中教審、201519頁)
ここでは、全国の学校の8割に定着したとされる学校評議員制度のように、保護者や地域住民の学校運営への「参画」が重視されている。最後の一行は、教育は学校で行われているので、家庭も地域も責任をもって分担してほしいと読めてしまうのは飛躍し過ぎだろうか。少なくとも学校運営への「参画」は、「地域学校協働本部」がハブとなり、地域住民のボランティア活動のコーディネートを行う「地域と学校との協働体制」が提言されたことは間違いない。
「部活動指導員」の趣旨も、オリンピックを目指すジュニアチームではなく(中には全国大会出場常連校もあるかも知れないが)、あくまで学校教育の中の部活のプラスαとしての「サポートスタッフ」である。なので、独自に導入を始めている自治体がある一方、つい先日、部活動指導員の年内の制度化は予算措置上困難と報道されたように、「地域や学校の実情に合わせて」という文言どおりに組織的な改革に直結せず、地域や学校間の格差を生む恐れもある。放課後に楽しくサッカーして、来週はダンスがしたいという子どもを校庭や体育館から閉め出してしまう、一競技集中型の部活のあり方も問題が無いだろうか。
いずれにしても、スポーツ等の課外活動を学校が丸ごと抱える必要はないと思うし、むしろ部活のために地域の活動が育たなかった悪循環さえ見えてくる。
「子どもたちに生活体験、社会体験や自然体験など様々な活動を経験させ“生きる力”を育むため」に1992年より段階的に始められた「学校週5日制」も、2002年度の完全実施後のわずか10年後、201311月の学校教育法施行規則改正により教育委員会等の判断で「土曜授業」が可能となった。「土曜学習」としてガチな補習授業を行う学校も増えた。学校週五日制の導入当初は(嫌な言葉だが)「土日の受け皿」として社会教育がクローズアップされたが、結局、地域は「受け皿」になり得ないと学校関係者や保護者等に不合格とされたようで、土曜の登校が再開された。残念ながら、児童生徒を対象とした社会教育が理論も実践も十分に機能していない現状では賢明な判断と思う。しかしますます学校が担う機能は肥大化し、子どもの生活空間そのものが、地域の文脈を離れて学校教育の中に終始することには「待った」を掛けなくてはと思う。
では、そもそも地域の教育力のあるべき姿はどのようなものか。一つの答えとして、社会教育史家を名乗られる久田邦明氏の描く豊穣な世界を挙げたい。
久田氏は、青少年教育や社会教育の周辺に息づく「茶堂」に始まるコミュニティ・カフェの機能やフリースクールの実践等の斬新な切り口と味のある語り口で、教育の本質を炙り出す名手である。「地域の教育力」については、愛知県内安来市周辺に暮らす職人たちへの聞き取りを集めた本を引いて、人を成長させる場としての地域社会と教育の密接な絡み合いを鮮やかに示されている。
職人というと「この道一筋」のような純粋な高尚さとストイックさをイメージしがちであるが、実は彼等は皆が皆、決して専業の職人として生まれついた訳でなく、地域社会の中で色々な仕事を経験しながら「一人前」に育つのだ。若い杣屋(伐木の職人)であっても、トロッコ押しや屋根屋、左官屋の手伝いをして働き、多様な下仕事の経験を通じて腕や勘を磨き、地域の人脈も築いて杣の親方になっていく。現代的な専門職養成論から一見すると効率が良くない方法と言える「手間賃稼ぎの実地訓練」を地域社会が長い目で支え、回り道のような軌跡を経て「親方への感謝の気持ちで一杯」で「一人前」に育った職人が次世代の職人の育ちと生業を、これまた気長に支えていく。そうした鷹揚な土壌こそが「地域の教育力」と呼べるのだと久田は述べる。
今日の「一人前」の定義は、たしかに「カマスに入った8貫の塩を積み上げられる」といった具体的な指標が見えない。高校や大学の卒業をもって社会人と見なすとしても、既に高校から地域社会を離れる生徒が少なく無く、「卒業」や「就職」は、地域社会の営みに関わることの無い資格となっている。久田の言葉を借りれば、「本人が一人前になったことの証明というよりも、人並みから落ちこぼれないための必要条件といった意味における消極的なもの」なのだ。
職人のエピソードは、学歴社会といった学校問題へのアンチテーゼとして注目を集めた「正統的周辺参加」論を彷彿とさせる。しかし地に足の着いた職人界の学びは、今日の学校教育とは異なる次元にあることも指摘されてきた。学校での学習は、学ぶ内容やゴールを含めて必ずしも地域の「一人前」の基準とは結びつかず、「地域の教育力」を補うべく学校教育を拡充させていけば、久田の言う「地域の教育力」はますます低下していくこととなる。同様に、「チーム学校」の台頭が進むなら、そうした傾向に拍車が掛かることは必須である。
「チーム学校」論は賛否両論で受け止められていると思う。「教育サバイバル」というおどろおどろしい名の特集が組まれた今月の『現代社会』では、元中学教師の赤田圭亮氏が「チーム学校」の問題点を挙げられていた。専門スタッフの導入により、日本独特の学校文化となった「総合的指導」が解体されることへの懸念である。良くも悪くも日本の教師は部活や生徒指導、進路指導等、マルチに取り組んできた。しかしくだんの中教審答申は、表向きはそうした「総合的指導」の伝統を称賛しながら、SCも十分に定着しないままSSWや部活動指導員等も増やすという、赤田氏の辛辣なネーミングでは「効率性優先の無機質な工場づくり」を提言しているのである。
「総合的指導」を否定するなら予算に糸目をつけない大胆な外科手術が必要だが、その気配は無い。小手先の専門スタッフの導入(と葛藤)を受け止めるために、まずは教員の置かれた「ブラック」な現場を改善し、正規の教員数の確保や学級の生徒児童数の編成等で「総合的指導」を全う出来る体制づくりこそが、正統な学校改革として進められるのが筋であろう
 遥か昔に言われた「学校のスリム化」が進み、学校教育と地域における教育が真に共存していくことを願いたいが、その前に社会教育の、赤田氏の言葉を借りるなら「空洞化」が心配されるこの頃である。

*参考

  • 高浜行人「『ブラック』な部活顧問、負担軽減を検討へ:文科省」[朝日新聞デジタル201647日 http://digital.asahi.com/articles/ASJ46569YJ46UTIL025.html
  • ジーン・レイヴ、エティエンヌ・ウェンガー著(佐伯胖監訳)(1993)『状況に埋め込まれた学習:正統的周辺参加』産業図書
  • 赤田圭亮(2015)「工場化する学校:『チーム学校』の問題点から考える」『現代思想』(2016年4月号)90-110

2016年4月2日土曜日

新年度の中高生に薦めたい図書館




冒頭、何だか長いリストになってしまった。中高生に薦めたい話題の施設や、私自身が行ってみたい図書館等、おそらく良質な図書館揃いである。
ちょうどビジネスマン御用達の「ダイヤモンド」社のWebサイトで、「図書館の本当の活用法は小説を借りることではない」というタイトルの記事を見かけたが、まさにその通りである。ディズニーランドを擁する千葉県浦安市が図書館界でも有名だったように、かつて公立図書館は貸出冊数を競い、今日でも行政評価の指標となっている。しかし「ダイヤモンド」の論説委員は、清水幾太郎の言葉を引いて「自分を大量の読書へ向かわせる方法」を実践する場と述べる。ベストセラー小説なぞを借りている場合では無い、複数の館で司書やOPAC等を活用し、大量の調べ物をして成果物を仕上げよう、という奨めである。
貸本を咎める訳ではないが、この通り図書館をフル活用してほしい。尤も、中高生向きでない部分がある。一つは夜間利用。それから国会図書館東京本館。私にとってもマストな館であるが、満18歳以上でないと入れない(国会図書館分館の国際子ども図書館も「禁18歳未満」フロアがある)。それから中高生にはマストかも知れない自習室の機能。後述するが、本や知的空間をサカナとする談話や、補助学習の機能等も加わるかと思う。
まずは今をときめく「おしゃれ」図書館の代表格、通称TSUTAYA図書館。佐賀県武雄市が皮切りで、いつか行ってみたいとは思っていたところ、神奈川の海老名市にも昨年出来たので訪問してみた。駅前の喧噪から離れて再開発中の工事現場の脇をとぼとぼ歩き、やがて科学館みたいなドームを擁したグレーの建物が見えて来る。吹き抜けのおしゃれな空間で、建築好きな人でなくとも一見の価値あり。1階入口のすぐ脇にはスタバことスターバックスコーヒー店が広がり、本の他、高級文具の販売スペースもある。館内の買い物だけでなく貸出にもTSUTAYA「Tカード」が使用でき、iPadの無料貸出サービス(1日1時間)もあり、PC利用が珍しくない今時な施設である。訪問日は日曜で絵画鑑賞のワークショプがあったが、そうしたイベントも魅力だ。
中高生に肝心と思われる自習室も充実している。3階には公称90席で飲食物やPC類は不可の「学習室」があり、参考書を持ち込み集中して勉強している、または寝ている高校生が見受けられた。年中無休で午後9時まで開いているので、部活や塾の後も便利かも。花曇りの日は、すぐ外にあるテラス席も素敵だ。パラソル付きのテーブルで、ドリンク片手にゆったり読書や談笑が出来る。
しかし、中高生のお小遣いを考えると厳しい面もある。若い人がコーヒーをストレートで頼むのは珍しいと思うし、ホイップクリームやキャラメルソース等を追加するとドリンクだけで500円近くなってしまう。「スタバ席」は注文した人が対象であるが、確信犯と言いますか、人目に付きにくいカウンター席を占領していた高齢男性の他、そうした事情を知ってか知らでか、スマホを見せ合いながら談笑していた女子高生を、店員がやんわりと注意していた。
同様の風景は、仙台市民図書館にも見られる。2001年開館で建築界でも注目を集め、上下を貫く鉄骨のチューブが印象的な「せんだいメディアテーク」の3、4階に位置する図書館だ。3階の「閲覧席」(44席)は人気で、他のソファ席も含めて席取りが難しい上、開放的なスペースなので何となく落ち着かない。「スタジオ」等がある7階のラウンジは穴場であるが、事情は同様と思える。1階のカフェのメニューも、スタバほどでなくても安くは無い値段である。
最近作られた図書館には、乳幼児や小学生対象の長居出来るスペースが用意されている。例えば海老名市立中央図書館には、最上階に児童書の専用フロアがあり、1階から直通で、内装が可愛いエレベーターもある。しかし、それらは原則的に「親と一緒」が条件であったりする。この意味で、キッズと大人の狭間の中高生に、図書館は決して居やすく無い場所かも知れない。
そんな中、中高生向けのフロアを作った図書館もある。武蔵境駅を降りて目の前の、躯体も窓も卵形っぽいユニークな建築の「武蔵野プレイス」。武蔵野市立図書館の分室を再編し、図書館機能を核として生涯学習支援、市民活動支援、青少年活動支援を行う、目的そのものもユニークな複合施設となっている。で、ここの地下2階は、原則的に「19歳以下」の青少年専用フロアだ。図書館に当たるスペースの他、ダンスやクラフト用の貸出スタジオがあるが、最も特徴的なのが中央に広がる「スタジオラウンジ」である。建物全体が午後10時まで開いている上、このラウンジは「おしゃべりをする」場として堂々と位置付けられており、本当に制服のままの中高生が「だべって」いる。小学生も利用可能だが、午後5時で退出を迫られる。ロビーワークを行う専任スタッフもいて、そこはかとなく、時には厳しい目で子どもを見守っている。
司書の研修に便乗して見学させていただいたので、図書スペースにある青少年用図書をどうやって分類・管理するか、ばんばん質問が飛んでいたが、そうした図書は1万5千冊を超え、「ラノベ」等で良いだろうと手を抜いたりしない、芸術系の図書も揃えた本格的な選書である。「アフター5」(死語か?)のラウンジの様子も、ぜひ見学させていただきたいと思った。
建築や蔵書に魅力があり、知的な時間をゆっくり過ごせる青少年の居場所として、「まちづくり」の要素も見過ごせないと思う。大学生がほとんど暮らしていない町では、高校生は地域の魅力を作る大人の一人として見なされていると思う。行ってみたい図書館であり、もちろん一見さんOKであるが、良い意味で内向きな「町の図書館」を標榜する岩手の紫波町図書館や長野の小布施町図書館は、高校生を子ども扱いしない図書館ではないかと思う。前者は「公民連携」(猪谷千香氏の論説を参照)の構想そのものが伝説となった「オガール」にあり、後者は「小布施から世界を照らそう」等の発想の元で「テラソ」と命名され、実際に夜は行灯のように町を照らしている町立図書館である。農業等の地域の産業の発展(オガールには産直マルシェもある)や、伝統芸能の継承(テラソは「お肴謡伝承活性化プラン」の拠点となっている)を図り、若い人を含めた市民参加を促す仕掛けがある。
 尤も昔ながらの町の図書館も、中高生をさりげなく、温かい目で迎えている。春先に、神奈川の横須賀市立中央図書館を見学させていただいた。やや勾配の急な「読書坂」の上に立つ1980年代の建物は、初めてなのに懐かしさを感じさせる、良い意味で「よくある公立図書館」だ。特徴と言えば、アメリカ海軍の関係者の寄贈というペンギンブックスのようなペーパーバックの洋書でいっぱいの書架や、産業系の図書等も充実した郷土資料室であるが、読書室の充実も挙げられる。その名も「学生読書室」と名付けられた、簡素な机と椅子のみが並ぶ部屋があり、一緒に訪問した方が「浪人時代にお世話になった」と懐かしそうに話されていたが、勉強に集中できそうだ。「リフレッシュルーム」として飲食可能な場所もあり、そして3階の窓からの眺めは素晴らしい。
そもそも「町の図書館」の私なりの原風景には、実家近くの国立市公民館が根深い。高校生の頃から暇な時に立ち寄った。開放的な図書室は広くも、蔵書が多い訳でも無いが、当時の私に必要だった本がコンパクトな空間に揃い、あちこちに置かれた椅子で読めた。半地下には「喫茶わいがや」があり、300円ほどでコーヒーとクッキーがいただけた。学部生時代には障害者の青年教室に参加した流れで「わいがや」にスタッフとして入るようになり、車椅子できびきび指示を出すベテランスタッフと組んでコーヒーを淹れ、オーブントースターでクッキーを焼いた。国立市には今で言う特別支援教育の草分けの滝乃川学園があり、そこで作られた陶製の食器なので、手で丁寧に洗った。公民館の近くの「Dドーナツ」ではコーヒーをいただきながら高校生の勉強を見るアルバイトもしていて、私にとって公民館の図書室は、そうした青年教室や喫茶の活動やアルバイト、また学部等での学習で得た、青臭い知識や思考等を咀嚼するための、ニュートラルな場所になっていたと思う。
市町村の財政が逼迫した今日は合理的な機能や貸出数等の数量がエビデンスとして求められる時代であるが、ほっておかれる、おしゃべりできる等が約束される適度に知的な空間を、大人の入口に立つ中高生に残せると良いが。どんな施設や機能がほしいか、今時の中高生の意見を吸い上げる仕組みも備えたい。昨年は鎌倉市の図書館のツイートが話題となったが、新年度で気だるい中高生には、町の図書館に目を向けてほしい。何だか長くなったので、補助学習の機能は別の機会に述べたい。

*参考