2016年4月10日日曜日

“チーム学校”時代の“地域の教育力”

久田邦明(2015)『生涯学習の展開:学校教育・社会教育・家庭教育』現代書館 を読む 


 内閣直属の諮問機関である「教育再生実行会議」が教育改革案を打ち出し、中央教育審議会(中教審)がその後追いをするような状況が続いている。教職課程の授業で扱う素材が豊富かつ新鮮なことはありがたいが、現政権の意向が矢継ぎ早に具体化される展開の早さと、例年の予算折衝で財務省に押されて低予算の遣り繰りとなり、教員の定数確保のほか幼児教育や高等教育の無償化等の根本的な問題はさておいて低予算で施策化できる、言わば現場の工夫や努力で賄われる改革や新規事業が優先される実態に、疑問と不安を覚えることが少なくない。その一つが「地域の教育力の低下」に関わる施策だ。
特に1996年の中教審答申「21世紀を展望した我が国の教育の在り方」が出てから、「地域の教育力の低下」というフレーズは、教育改革が必要となる元凶の一つとして様々な文書で枕詞のように付される感がある。学生の小論文にも、「地域と家庭の教育力の低下」が書き出しに判を押したように使われたりする。「三丁目の夕日」のような素敵な人間関係や相互扶助のような機能は、今日ではたしかに低下しているのだろう。しかしだからといって学校教育ですべてを抱え込むような施策化に拍車をかけるのは、一呼吸置いて欲しいと思うのだが。
その先鋒が「チーム学校」である。「教育再生実行会議」第五次提言(2014)をふまえ、昨年末に中教審の答申が三つ揃って出された衝撃は(「1221日」と諳んじられるほど)大きかった。大学の職務上、圧倒的なインパクトを持つのは教員養成関係の答申であるが、その他にくだんの「チーム学校」と、研究上で注視している「コミュニティ・スクール」と言いますか「地域学校協働本部」がキーワードとなる答申の三つ巴である。教員養成改革に加え、「学校を核とした地域づくり」と、「学校組織全体がチームとして力を発揮する」体制がタッグを組んで学校を支えていくことが、「1221日」に提言されたのだ。
「チーム学校」とは、教員以外のスタッフが少ない(日本は教職員総数の82%が教員だが、イギリスは51%らしい)、児童生徒のニーズの多様化(特別支援教育、貧困等)、教員の勤務時間が長過ぎる(TALIS調査の参加国平均は約38時間で日本は54時間(汗))といった現状をふまえ、主幹教諭や事務職員等の他、スクールカウンセラー(SC)とスクールソーシャルワーカー(SSW)等の専門スタッフの配置を拡充させる施策だ。「教職員構造の転換」とタイトルが付けられた通り、SSW等を積極的に配置して教員が「授業など子どもの指導に専念」できるよう、抜本的な学校運営、さらに言えば学校文化の改革を行う趣旨だ。
話題を集めたのが「チーム」の一員として、「部活動指導員(仮称)」が提言されたことだ。実業団OB等の競技に精通したアマチュアが想定されている。対外試合の引率も可能な指導員の導入は、運動部や、複数の部活動の顧問となった教員の過重勤務の常態化の梃入れとして、たしかに進んでほしいと思う。
しかしその前に、「ブラック部活」という言葉が囁かれ、実は「顧問」の位置付けも不確かとして問題視される部活を、さらに専門化して維持していく必要はあるかという根本的な問題が残る。また、一連の答申では「社会に開かれた教育課程」が謳われ、学校側の地域連携や地域の学習資源の活用等の文脈は見えても、地域社会の中で子どもが育つというイメージが、どうも見えてこない。
で、学校と地域が対等のパートナーになり得ていない要因に、「地域の教育力」問題が横たわっているように思えてならない。くだんの「チーム学校」を提言した中教審答申では、「低下」と言わずとも学校と地域の関係の「変容」として、次のように地域連携のスタンスを示している。
 「元来、学校は地域の中にあるものであり、地域の協力や支援のもと、教育活動を展開してきた。その上で、近年は家庭や地域の力を学校に取り入れていくため、学校評議員制度、学校運営協議会や学校支援地域本部等の仕組みや学校の情報公開の取組が進められてきたところであるが、高齢化や過疎化が進展する中、学校と家庭や地域との関係についても従来とは変化が見られる。
 学校が抱える課題が複雑化・困難化している状況の中、課題を解決していくためには、学校がより一層地域に開かれ、地域住民や保護者等が学校運営に対する理解を深め、積極的に参画することで、子供の教育に対する責任を学校、家庭、地域と分担していくことが重要である。」(中教審、201519頁)
ここでは、全国の学校の8割に定着したとされる学校評議員制度のように、保護者や地域住民の学校運営への「参画」が重視されている。最後の一行は、教育は学校で行われているので、家庭も地域も責任をもって分担してほしいと読めてしまうのは飛躍し過ぎだろうか。少なくとも学校運営への「参画」は、「地域学校協働本部」がハブとなり、地域住民のボランティア活動のコーディネートを行う「地域と学校との協働体制」が提言されたことは間違いない。
「部活動指導員」の趣旨も、オリンピックを目指すジュニアチームではなく(中には全国大会出場常連校もあるかも知れないが)、あくまで学校教育の中の部活のプラスαとしての「サポートスタッフ」である。なので、独自に導入を始めている自治体がある一方、つい先日、部活動指導員の年内の制度化は予算措置上困難と報道されたように、「地域や学校の実情に合わせて」という文言どおりに組織的な改革に直結せず、地域や学校間の格差を生む恐れもある。放課後に楽しくサッカーして、来週はダンスがしたいという子どもを校庭や体育館から閉め出してしまう、一競技集中型の部活のあり方も問題が無いだろうか。
いずれにしても、スポーツ等の課外活動を学校が丸ごと抱える必要はないと思うし、むしろ部活のために地域の活動が育たなかった悪循環さえ見えてくる。
「子どもたちに生活体験、社会体験や自然体験など様々な活動を経験させ“生きる力”を育むため」に1992年より段階的に始められた「学校週5日制」も、2002年度の完全実施後のわずか10年後、201311月の学校教育法施行規則改正により教育委員会等の判断で「土曜授業」が可能となった。「土曜学習」としてガチな補習授業を行う学校も増えた。学校週五日制の導入当初は(嫌な言葉だが)「土日の受け皿」として社会教育がクローズアップされたが、結局、地域は「受け皿」になり得ないと学校関係者や保護者等に不合格とされたようで、土曜の登校が再開された。残念ながら、児童生徒を対象とした社会教育が理論も実践も十分に機能していない現状では賢明な判断と思う。しかしますます学校が担う機能は肥大化し、子どもの生活空間そのものが、地域の文脈を離れて学校教育の中に終始することには「待った」を掛けなくてはと思う。
では、そもそも地域の教育力のあるべき姿はどのようなものか。一つの答えとして、社会教育史家を名乗られる久田邦明氏の描く豊穣な世界を挙げたい。
久田氏は、青少年教育や社会教育の周辺に息づく「茶堂」に始まるコミュニティ・カフェの機能やフリースクールの実践等の斬新な切り口と味のある語り口で、教育の本質を炙り出す名手である。「地域の教育力」については、愛知県内安来市周辺に暮らす職人たちへの聞き取りを集めた本を引いて、人を成長させる場としての地域社会と教育の密接な絡み合いを鮮やかに示されている。
職人というと「この道一筋」のような純粋な高尚さとストイックさをイメージしがちであるが、実は彼等は皆が皆、決して専業の職人として生まれついた訳でなく、地域社会の中で色々な仕事を経験しながら「一人前」に育つのだ。若い杣屋(伐木の職人)であっても、トロッコ押しや屋根屋、左官屋の手伝いをして働き、多様な下仕事の経験を通じて腕や勘を磨き、地域の人脈も築いて杣の親方になっていく。現代的な専門職養成論から一見すると効率が良くない方法と言える「手間賃稼ぎの実地訓練」を地域社会が長い目で支え、回り道のような軌跡を経て「親方への感謝の気持ちで一杯」で「一人前」に育った職人が次世代の職人の育ちと生業を、これまた気長に支えていく。そうした鷹揚な土壌こそが「地域の教育力」と呼べるのだと久田は述べる。
今日の「一人前」の定義は、たしかに「カマスに入った8貫の塩を積み上げられる」といった具体的な指標が見えない。高校や大学の卒業をもって社会人と見なすとしても、既に高校から地域社会を離れる生徒が少なく無く、「卒業」や「就職」は、地域社会の営みに関わることの無い資格となっている。久田の言葉を借りれば、「本人が一人前になったことの証明というよりも、人並みから落ちこぼれないための必要条件といった意味における消極的なもの」なのだ。
職人のエピソードは、学歴社会といった学校問題へのアンチテーゼとして注目を集めた「正統的周辺参加」論を彷彿とさせる。しかし地に足の着いた職人界の学びは、今日の学校教育とは異なる次元にあることも指摘されてきた。学校での学習は、学ぶ内容やゴールを含めて必ずしも地域の「一人前」の基準とは結びつかず、「地域の教育力」を補うべく学校教育を拡充させていけば、久田の言う「地域の教育力」はますます低下していくこととなる。同様に、「チーム学校」の台頭が進むなら、そうした傾向に拍車が掛かることは必須である。
「チーム学校」論は賛否両論で受け止められていると思う。「教育サバイバル」というおどろおどろしい名の特集が組まれた今月の『現代社会』では、元中学教師の赤田圭亮氏が「チーム学校」の問題点を挙げられていた。専門スタッフの導入により、日本独特の学校文化となった「総合的指導」が解体されることへの懸念である。良くも悪くも日本の教師は部活や生徒指導、進路指導等、マルチに取り組んできた。しかしくだんの中教審答申は、表向きはそうした「総合的指導」の伝統を称賛しながら、SCも十分に定着しないままSSWや部活動指導員等も増やすという、赤田氏の辛辣なネーミングでは「効率性優先の無機質な工場づくり」を提言しているのである。
「総合的指導」を否定するなら予算に糸目をつけない大胆な外科手術が必要だが、その気配は無い。小手先の専門スタッフの導入(と葛藤)を受け止めるために、まずは教員の置かれた「ブラック」な現場を改善し、正規の教員数の確保や学級の生徒児童数の編成等で「総合的指導」を全う出来る体制づくりこそが、正統な学校改革として進められるのが筋であろう
 遥か昔に言われた「学校のスリム化」が進み、学校教育と地域における教育が真に共存していくことを願いたいが、その前に社会教育の、赤田氏の言葉を借りるなら「空洞化」が心配されるこの頃である。

*参考

  • 高浜行人「『ブラック』な部活顧問、負担軽減を検討へ:文科省」[朝日新聞デジタル201647日 http://digital.asahi.com/articles/ASJ46569YJ46UTIL025.html
  • ジーン・レイヴ、エティエンヌ・ウェンガー著(佐伯胖監訳)(1993)『状況に埋め込まれた学習:正統的周辺参加』産業図書
  • 赤田圭亮(2015)「工場化する学校:『チーム学校』の問題点から考える」『現代思想』(2016年4月号)90-110

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