2016年3月6日日曜日

心に寄り添うということへの迷いと気概

NHK福祉ポータル)ハートネットTV「静かでうるさい居酒屋」(2016年2月15日)を視聴する


3月3日は「耳の日」で、この週末は全国で行事が展開されている。ふと、聴覚障害のあるご夫妻が営む居酒屋のドキュメンタリー番組を思い出した。
新宿・大久保の路地にある居酒屋「ふさお」は店のあちこちからカウンター越しに手話が飛び交い、タイトルのとおり「静かでうるさい」人気店である。健常のお客さんも少なくなく、手話が分からないけれど週4日通う常連もいらっしゃるとか。その賑やかな店で、聾者の常連客が述べた「聞こえる人と交流して楽しかった。」というコメントがひどく耳に残った。
「公用語が手話」というこの店では、手話を使う者がマジョリティである。お店で自由に振る舞う彼等は、店の外に広がる「表社会」では、障害のある者同士に限定された対話、あるいは口語や「健常」の世界の事柄を教える/教えられるという上下関係に基づく教育的問答に押し込められてはいないか。逆の立場から言えば健常者は、「口語」のネイティブという生来の圧倒的優位性をもって難聴者や聾者を威圧し、彼等の言葉を引き出してサシで対話しようという意識が欠けていたことは無かっただろうか。
「ふさお」に多くの人が引き寄せられるのは、「表社会」の健聴者/障害者の関係性を反転させた非日常性にあるのかも知れない。日常の重力から解き放たれて、誰もが饒舌になる。障害者同士の上辺だけの仲間づくりや慰め合いなぞ端から目指されていないのだ。
東日本大震災から5年が過ぎようとしており、メディアで多用される「絆」とともに、被災者に「寄り添う」という言葉が気になっている。今朝のNHKの「日曜討論」(最近は与党の政見放送みたいになっているかも)も然り。
被災者に対し、そして障害者に対して対岸に立つ者、つまり当事者で無い者は「寄り添う」ことは出来るのか。もちろん「寄り添う」ことは社会的に求められ、教育の現場でも同様であるが、当事者の「心に寄り添う指導」は可能か。
語弊はあるが、真の意味で「心に寄り添う」ことは、現状がリセットされない限り不可能だと思う。学校においてはややもすれば「被災地を思いやろう」、「被災者の〇〇さんと仲良くしよう」等のフレーズが行き交うが、互いの立場を乗り越えられることは先生でも困難であろうし、一寸やそっとの気配り等で出来ると思うことこそ不遜な振る舞いだと言えないだろうか。
この「寄り添い」は私の課題でもある。教師を目指す学生には東日本大震災等の被災者も少なくないが、他県での就職を希望する者がいる一方、地元を元気にしたいと強い使命感を持つ者もいる。女子学生の場合に気になるのは経済的に(保育系は薄給が多いので)、また家族の介護の問題で実家を離れることが困難だったりして複雑に悩み、実際に進路が限られる者が少なくない。
カウンセラーでも神父でも無いし一人ひとりの心に寄りそうことは不可能であるが、(年の功ですが)経験から類推出来ることを助言すること、あるいはサンドバッグのように話を聞くこと、ときには勉強中のグループに(コーヒーは苦いと言われるので)「午後ティー」を差し入れることくらいは出来る。しかし最も役立つだろうことは、教職を希望する者が実力をつけ、教育実習や採用試験を乗り越えて本当に教師になれるよう、学内で出来る限りのバックアップすることである。
さらに言えば、そうした学生の状況をふまえた政策提言が出来れば上等だ。いずれにしても「気持ち的」な寄り添いなぞでなく、物理的な条件整備を伴わせる共感が出来ることが、被災者でも障害者でも無い非当事者の使命だと思う。少なくとも、相手には共感なんて到底無理と思われようが少しでも「分かる」こと、また改善してほしいことへの具体的な手助けが出来れば嬉しい。

*参考

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